てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

本年もよろしくお願いします

明けましておめでとうございます。

昨年、お世話になった皆さま、ありがとうございました。
拙い歩みではありますが、小さな階段を少しづつ登るように成長して行きたいと思います。

今後とも応援のほどよろしくお願い致します。

 

さて、2020年は、子どもたちとも哲学対話をする時間がもっと持てるといいなぁ、と考えています。

子供たちにとっても、もっと自由に考えたり、言葉にしたり、そしてその言葉を真剣に聞いてくれる人がいる、そんな場所が作れれば嬉しいです。
幼い頃の私が求めていたような、そんな対話の相手に私自身がなれたらいいな、と思います。

 

他の子どもたちと一緒に居ることや、人数のいるところに参加するのは難しいけれど、考えることは大好き!というお子さんでも、個別に対応できないか、ご相談に乗らせて頂きます。

 

そして、もちろん、年齢に関係なく老若男女みんなで哲学対話ができれば、とても嬉しいです!
ぜひ、関心のある方は、お気軽にお声がけください。

 

 

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探究心を育てるこどもてつがく

 

読んで一緒に考える探究心を育てる こどもてつがく

2019年11月2日 丸亀市飯山総合学習センター(飯山図書館)にて、小学生を対象にした「こどもてつがく」をしました。

当日は5人のお子さんが参加してくれました。その内、4人は小学2年生、1人は幼稚園生でした。

 

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こどもてつがく飯山図書館2019.11.02

※写真はプライバシーのため顔に猫のスタンプを貼っています。


「猫と僕の対話」

 永井均さんの『子どものための哲学対話』を参考に、文章をより簡単にして、イラストを入れたプリントを持って行きました。

文章は、猫と僕の対話で構成されています。テーマは「友達」と「後悔」の二つに絞りました。内容について少しご紹介しておきたいと思います。

 

友達って必要?

文章は「友達って必要だと思うかい?」と言う猫の質問から始まります。男の子は、「友達は絶対に必要だし、人間には自分のことを分かってくれる人がいなければ生きていけないのだ」と話します。一方、猫は、「自分のことを分かってくれる人がいなくても生きていけるということが本当の強さで、そのことを人間はもっと学ぶべきじゃないか」と言います。

 

後悔しちゃうこと

文章中、男の子は、「自分なりに一生懸命やったのだけれど、後になって、後悔しちゃうことがある」と話します。すると、猫は、「後悔などしなくてもいいよ。その時はそうするしかなかったのだからそれでいいのだ、と自分自身に言ってあげると良い」と言います。

誰かがそう励ましてくれれば、安心できると男の子は言いますが、猫は、人に期待しても無駄なのだと言います。自分の場合は、自分自身で「これでいいのだ」と思えることが、本当の強さではないかと猫は男の子に問いかけます。もしも、そこまで強い自分になれなかったとしても、人にそう言ってあげることは簡単にできるだろうし、自分自身が本当に心から「あの時はあれでよかったんだ」と信じることもできるようになると、猫は言います。

 

参加した子どもたちの考え -友達について-

まず最初に、「友達について」のプリントを読みました。

感想や考えを求めると、しばらくみんな黙っています。

ある男の子が口を開きました。

最初の一言が「友達って何なん?」でした。

 

素晴らしい質問です!友達って何なのでしょう?

 

すると、次に「友達は遊ぶための道具」という答えが出てきました。

なるほど。人を手段や道具として用いるということはあり得そうです。

ずっと恥ずかしそうにうつむいていた女の子が、とても小さな声で「それは違うと思う」と言いました。

 

「どう違うのでしょう。もっと教えて?」と聞いてみると「友達はロボットじゃないから。人間だから」と答えてくれました。

先ほど「友達は道具」と答えたお子さんが、その言葉を受けて「友達は道具じゃない。人間だから。人間にはロボットと違って命があるから道具じゃない。」と答えてくれました。

 

「物と人間」の違い、「人と道具」の関係性はとても面白いテーマです。

 

「じゃあ逆に、友達じゃないってどういうこと?」と聞いてみると、「一緒に遊ばなかったら友達じゃない」という答えが返ってきました。他にも「相手が僕のことを知らなくて、僕が相手のことを知らなかったら、友達じゃない。世界に絶対に1人はそういう人はいる。」という答えもありました。

 

「お互いを知る」ということと「友達になる」ということは、関係が深いのでしょうか?

 

「じゃあ、どうやったら友達になるの?」という質問には、「友達は作るもの。一緒に遊んだり、一緒に何かをしたら友達になる。」と教えてくれました。

 
「友達って必要?」と聞くと「いらんときもある。絶対一回はある。ゲームする時は一人でするし、一人で遊ぶこともある。友達に仲間に入れてもらえなかった時は一人で遊ぶ」との意見に、手を小さくあげる女の子がいました。

女の子は「カルタやトランプする時は友達が多いほうがいい。カルタは読む人がいるし、トランプは引く人がいる」と答えてくれました。

  

残り時間15分となったところで、「なあ、次のやつやらんの?」と一人の男の子が私に聞いてきました。

「次のやつ」とは、「後悔しちゃうこと」をテーマにしたお話です。

子どもたちの集中力も途切れ途切れだったので、今回は「後悔しちゃうこと」はやらなくてもいいかな、と私は思っていました。

子どもたちは、配ったプリントを全部使っていないということに気がついていていたのです。

「本当にやりたい?」と聞くと、「ウン」と返事が帰ってきました。

「やりたい人どのくらいいる?手をあげて教えて」と聞くと、4人の子供達が手をあげました。
そこで、「後悔しちゃうこと」を読むことにしました。

 

子どもたちの考え -後悔について-

「後悔しちゃうこと」のテキストを読み始めるやいなや、すぐに男の子が手をあげて「後悔することある!めっちゃある!」と 話し始めました。

 

「ちょっと待って、最後まで読ませて」と言っても、もう男の子のお話は止まりません。

「めっちゃ後悔する。夜になったら後悔する。あん時あんなこと言わんかったらよかったなって思う。でも、言葉考えてた時に、友達に『はよ言えや』って、言われるから、言ったら、ちょっと違う言葉言ってしまって、夜になったら後悔する。それから、あん時ああしとったら、一緒に遊べとったのにな、って思うな。」

 

どうやら、夜に思い悩むことがあるようです。まるでその時のことを思い返しているかのように、今までとは違ったトーンで男の子は話してくれました。

それを聞いて力強く頷く女の子に「後悔することあるの?」と聞くと、「ある」と答えてくれました。

もう一人の女の子にも聞いて見ましたが、彼女は首を傾げていてよく分からないといった様子でした。

「後悔するのは夜なの?」と聞くと、「うん。夜。」と二人から返事が帰ってきます。

  

プリントを読んでいる間、子どもたちがどのくらい聞いてくれているのか分からないのですが、それでも、気になる文を拾ってくれているようです。

 

「猫が後悔なんてする必要ないよ」と言っているところを読むと、私の言葉を遮るようにして、先ほど後悔することがあると話していた男の子が「それでも後悔する!」と強く主張しました。

どうしようもなく後悔してしまう気持ちを、この猫は分かっていないのだ、と男の子は思ったようでした。そして、そう感じたのは、もう一人の女の子も同じだったようです。

 

彼女は「猫だから、人間の気持ちが分からない」と言いました。

そして男の子も「この猫、後悔したこと無いんや。猫は人間とは違うから、人間の気持ちが分からない。だから、(猫は)さっきも友達が必要ないって言ったんだ。」と最初の方のページに戻って、その箇所を指さします。

 

これを境に、この猫はおかしいのではないか、という話になります。

「猫が人間の言葉を喋るの。この猫怖い。」と女の子。

「そう。猫が日本語喋るなんて狼男と一緒。猫と人間は違う生き物だから、猫は人間の気持ちが分からない。」と男の子。

 

どうしようもなく心に湧き上がってくる後悔の念、それを「大丈夫」だなんて言われても、「ちっとも大丈夫なんかじゃない」というのが「後悔」というものなのかもしれません。

二人のお子さんは、自分の実感とプリントの猫が言っていることは、違っていると感じたのでしょう。そして「この猫は後悔する気持ちを分かっていない」と思い、その理由を「猫が人間とは違うからだ」とし、力強く熱心に説明してくれました。

  

「猫は、赤ちゃんの時から、大っきくなってもこう(四つん這いのポーズ)、人間は赤ちゃんの時はこう(四つん這いのポーズ)だけど、大きくなったら二本足で歩く。それに、猫は、全部毛が生えとるけど、人間はここだけ(毛が生えるところをジェスチャー)だから、猫と人間は違う。」

 

そんな時に、別の子が小さな声で「あと5分・・・」と時間を私に伝えます。

 

「僕なぁ、犬が人間の気持ちが分かるとかいうけど、よく分からんなぁ。」と男の子。タイムキーパーをしてくれた女の子が、それに頷きます。

 

人間と他の生き物はどう違うのか。人間とは何か。人間は他の生き物と分かり合えるのか。そもそも「気持ちが分かる」とはどういうことなのか。

どれも更に深く探求できるテーマだと思います。

  

最後は、みんなで集まって挨拶をして終わりました。

 

 

まとめ 

子どもたちは、走り回ったり、突然ピッチャーになったり、じっとしていることがまだ少し難しいのです。

人見知りであったり、何を求められているのかまだよく分からなくて、黙ってしまう子もいます。

それでも、みんな自分の疑問や考えをちゃんと持っています。
うまく言葉にできない子もいるけれど、首を傾げたり、力強く頷いたり、短な言葉で表現します。
大人が当たり前の前提として読み飛ばしてしまうところにも、鋭く疑問を投げかけたり、実体験や実感にそくして考えています。今日初めて会った子どもたち同士が、一緒に考えや疑問を交わすことができるのは素晴らしいことだと思います。
回数を重ねてこどもたちが「こどもてつがく」に慣れてくると、もっと、聴く力、話す力、考える力がついてくるのではないかと、沢山の可能性を感じた時間でした。

第2回の開催のご要望は、「丸亀市飯山総合学習センター(飯山図書館)」まで。

 「こどもてつがく」の詳細はこちら

 

 

 

 



思索と対話のお茶会「矛盾ってなんだろう?」

 

 

 

 

「矛盾ってなんだろう?」振り返り

 

思索と対話のお茶会1/22

「矛盾ってなんだろう?」

 

「それ矛盾してる!」と批判される文脈で聴くこともしばしば。

許される矛盾と許されない矛盾ってあるのかな?

あるとしたら、それはどんな差なんだろう?

ここでは、参加者の意見をいくつかご紹介したいと思います。

 

許せる矛盾?自分に被害があるかどうか?

 親しい人や関係者の言っていることとやっていることの矛盾は自分に関係してくるから被害を被る可能性がある。自分に降りかかってこない矛盾なら許せるかな、という意見がいくつか聞かれました。

 

矛盾って悪なの?

 矛盾しているということは、良くないこととして語られがちだけど、どうして矛盾は悪とされるんだろう?という疑問の声があがりました。

 

どうやって矛盾してるって分かるの?

 「言行の不一致」というキーワードは度々登場しました。

 

矛盾は個人の中で完結してるもの?

 矛盾は、その人ひとりの中で起きているもので、個人の中で完結している。例えば、「廊下を走るな!」と生徒を怒りながら廊下を走る先生とか。

 

矛盾は2者の関わりの中で起こる?

 上の意見に対して反対の意見が出てきました。自分個人の中で矛盾しているとしても、「私」とそして、別の「私」との間に起こるものあって、2者の構造があるのではないかな。「むじゅん」も日本語で書くと漢字で「矛」と「盾」の2つになるから。

 

 自分のなかの矛盾というのは、自分と自分の利害関係じゃないかな。自分で自分を傷つけることもあるから、と例を出して話される方もいました。

 

 

自分の中で矛盾が生じたときどうする?

 そんな質問に対してみなさんの答えは様々ながら、日常生活の中で何とかやりくりしているのが感じられました。

 寝る。酒を飲む。諦める。そういうものだと思う。時間に任せる。案外もっと大きな別のトラブルによってかき消されてしまうことも。

 これらの回答に、あるある!と親近感を覚えた人もいたのでは?

 

矛盾って簡単に乗り越えられるもの?

 絶対に何からも守る「盾」と絶対に何でも突き破る「矛」の2者が隣り合わせになって「矛盾」と言うのだということを考えて見ると、矛盾がいかに簡単なものではないかを思い知らされるような気がします。

 簡単に乗り越えられるものは、矛盾とは別の何かなのではないか、という意見もありました。

 

 

人間の抱える大きな矛盾は何だろう?

 最強の「矛」と最強の「盾」の組み合わせのように、どうにもできないような問題があるのか考えて見ました。

 例えば、私たちは生きて行くために食べなければならない。食べるとは、他のものの命を奪うことです。けれども、私たち人間は他の生き物と違って、悲しみや痛みを感じるために、他の生き物の命を奪うことを喜べない。豚や牛が殺されるところを見たくはないのに、食べることはする。生き物が死ぬのを見ると可哀想だと言うけれど、生き物を食べている。そうした内容は、矛盾の例としてどうでしょう?

 

地球にとって人間存在が矛盾?

 上の意見に対して、生きるために食べると言うことについてはそんなに矛盾には感じなけれど、地球にとって人間の存在が矛盾じゃないかと思う時がある、との意見がありました。

 他の生き物たちも、自分が生きるために食べていて、そして自分たちも他の生き物に食べられるという食物連鎖の中にいる。けれども人間を食べる他の生き物がいないから、地球にとって人間の存在が矛盾してるんじゃないかなと思う時がある。

 

 

矛盾してたっていいじゃない?

 矛盾してるから成り立ってる制度もある。仕事が待っているのに、朝起きられなかったりするなど、人からみると怒られるかもしれないようなことでも・・・・矛盾してたっていいと思う。

 

 そのように矛盾を肯定する参加者の発言される様子を見て、別の参加者の方から「だけど、まさに葛藤しているように見えるよ」との鋭いツッコミも。

 

 

どっちが先でどっちが後?

 問題が先に起きてそれが矛盾という形を取っている、との意見があれば、矛盾が先にあって対立しているものがあるとの意見も。

 

 

 

「矛盾」と「問題」は別物?

 矛盾と問題は別だよ。なぜなら、矛盾を問題に感じない人もいるから、という意見。

 

 これに真っ向から反対するのは、「矛盾は辻褄が合わないこと」を言うのだし、そのままにしておくと不利益が生じるから矛盾は問題でしょう!との意見。

 これは真っ向から対立する意見のようでしたが、だんだんと議論が進むと両者が結局は同じことを言っているのではないかと思われるような瞬間も出てまいりました。

 

 

矛盾に気がつくと発展してゆく?

 人生に矛盾はつきもので、乗り越えても乗り越えても次の矛盾がある。それが社会の在り方ではないだろうか。矛盾を乗り越えても次の矛盾があるということを前提に考える。矛盾を意識して解消しようとすることで、発展するものがあると思う。人間が「生きる」ということには、前提として「より良く生きたい」ということがあると思う。矛盾と葛藤してゆくことで、社会の風潮が変わるということもあるだろう。

 

矛盾は受け入れられない?

 矛盾をそのままにしておくなんて本当の意味で私たちにできるのかな?できないでしょう?矛盾を受け入れるということは成立しない、というのが人間の本性ではないのかな?

 

矛盾してる「学級目標」とそのプロセス?

 学級目標というのがある。最初は、ひとりひとりの宿題として学級目標の候補を作って提出する。その後、班になって、班のみんなで出し合ってお互いに考えてきた学級目標を組み合わせてより良さそうなものを作る。次に、班ごとに提出した学級目標が黒板に貼られて、多数決で決まってゆく。

 今年の学級目標は「個を尊重して団結する」に決まった。けれども、その学級目標は、教室なかに貼ってあるだけのものになって、誰も気にしてないし、誰も守る必要もない。こういう学級にしていこうという「建前」じゃないかと思う。そのことについても誰も問題だと思っていない。誰も気にしないし、守りもしない、その後、それについて考えることもしない。そんな学級目標を作っていく作業・・・そうだとしたら、この作業自体が・・・・無駄かもしれない。

 

 これに対して次のような反応がありました。

 

 「個を尊重して団結する」っていう標語自体にも矛盾が含まれていそうだね。そして、本当はそのプロセス自体も疑問にする方がいいよね。

 

 薄ら寒い感じがするよね。

 

 まさに「無駄だ」と気づいたら発展する。

 

 おそらく先生は「みんなで作るプロセス」を学ばせたいのだよ。それが社会に出たときに必要だから。

 

 学校のなかだけじゃなくて、会社でも似たようなことがある・・・。

 

「矛盾」それが人間じゃないか?

 

 毎日のなかに矛盾を見出そうと思えば、矛盾はある。生きていること自体が矛盾で一杯。それが人間じゃないか。

 

 

 

 

まとめ

 以上、皆さんのご意見を思い返しながらまとめてみました。学級目標のお話はとても興味深く、ひとつの例として考えさせられるようなものでした。「個を尊重して団結する」とはいかにして可能なのでしょうか。せっかく作られた学級目標をもとに対話される時間を先生が作られたら、とても素敵だなと想像します。

 難しいテーマだったと思います。日々の生活の中、矛盾があってもなんとか過ごしてゆくということや、心の葛藤としての矛盾についても語られました。一方で、地球から考える、社会や歴史から考えて浮き彫りになる人間の「矛盾」ということも語られたと思います。

 発言された方の意見をただ聞くだけではなく、更に質問を通して、発言の意図をクリアにされようとする参加者もおられました。参加された皆さんのご協力によって、とても良い時間になったと思います。ご参加ありがとうございました。

 

第9回 読書会『中動態の世界』9章 感想

 

中動態9章読書会まとめ

 最終章となった今回は、『中動態の世界』の読書会の最終日となりました。参加者は9名でした。

 

この章は、中動態の検討を通じて行為や意志や責任といった概念を問い直すための最終章です。これらの概念のもつ問題の根深さを再確認するために、本章では一つの物語が紹介されていました。その物語は、アメリカの作家メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』です。

 今回の読書会は、このビリーバッドの物語を含めて、プリントを輪読しながら進めました。

 物語の中では、ビリーとクラッガート、艦長ヴィアの「思う様に行動できない」3人3様の姿が描かれていました。

 彼らは、身体・気質、感情・人生、歴史・社会から、完全に切り離されて行為することはできません。私たちもまた彼らと同様にそれらから必ず制約を受けるため、完全な自由ではいられらません。

ビリーとクラッガート、ヴィア艦長は、日常のなかで生きている私たちをも映し出す存在である、とテキストでは指摘しています。私たちは、完全な自由にはなれないのです。

 この章では、この物語についてのアーレントの読解も書かれていました。アーレントの読解は、少し難解に思われ、参加者同士の対話の焦点にもなりました。

 「アーレントは、『ビリー・バッド』がフランス革命に影響を与えた哲学者ルソーや実際の革命の指導者であるロベスピエールらの思想の盲点を鋭くえぐり出す作品であるとして言及する」とあり、徳と善を混同してはならないと語っています。

彼女は、善がビリーであり、悪をクラッガートに、ヴィア艦長の人格を通して表現されているものを「徳」として解釈します。

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アーレント 徳の概念

 私たちは、普段、徳と善を混同して語ることが多いような気がいたします。徳のある人と言うと基本的には善良な人物を指すのではないでしょうか。私たちが持っている徳と善についての考え方とは違う切り口で語るアーレントに、読書会では戸惑いが生じたように思います。

 テキストで述べられているのは、徳が社会通念であり相対的なものであるということと、相対的なものであるがゆえに「永続的な制度」を実現しうるということです。そして、政治という営みを通じて、徳のある社会を築き上げることができるということです。
 一方で、善悪については「人間の社会で通用しうる、そして通用している規範には閉じ込められない過剰さがある」と述べられていました。それゆえに、徳に従って生きる市井の人々に善は理解されない。「絶対的な自然的潔白(p.289)」である善は、悪を排除しようとするときに暴力性を発するので、徳(社会通念)からは罰せられる。物語に再び照らし合わせると、法は、神の天使たるビリーを絞首刑に処さねばならず、根源的な悪はそれをすり抜ける。
けれども他方で、私たち人間は善を求める存在です。繰り返しますが、善は悪徳を批判しながら徳に従って生きる人々には理解されず、善は法によって処罰される要素を持ち、根源的な悪はその法からはすり抜けてしまう。
 このアーレントの主張は、人間存在にとって、とても残酷なものに思えます。実際「つらい気持ちにさせる」ものがあると著者である國分さんも書かれています。
 もちろん、アーレントが徳と善悪を区別しなければならないと考えたのは、相対的で社会通念である徳は「善」や「悪」という絶対性と混同されることによって大変な危険性を持つと考えたからだろうことは分かります。アーレントは、フランス革命の主導者であったロベスピエールが陥った恐怖政治の一因が「徳」と「善」の混同についてあるとみていることもテキストでは述べられていました。また『ビリー・バッド』の物語がフランス革命に影響を与えた思想家たちの盲点を突いていると述べられています。
 「法」と「善」との関係性について、森鴎外の「高瀬舟」の物語などいくつかの例をあげながら、参加者同士お互いに協力して、テキストをより正しく解釈できるよう努めたように思います。
 國分さん(このテキストの著者)は、ビリーたちの物語とアーレントの解釈を元にしながら、「法」が私たちを裁くものとしても実はうまくできていないのではないか、という問題提起をされています。ビリーたちの悲劇は、それぞれが思ったように行為できない(自由になれない)ということに起因しています。そこに加えて、善悪や徳(社会通念)と善を求める存在である私たちの関係性がみてとれるということだったと思います。
さて、私たちは自由にはなれないのでしょうか?國分さんは最後に次のように締めくくっています。
 
 完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。我々は、中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。
 自分がいまどれほど自由でどれほど強制されているかを理解することも難しい。また我々が集団生活で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない。(ref.294)
 われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しづつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいて行くことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。(p.294)

振り返り

『中動態 意志と責任の考古学』読書会の最終回であるこの時間、いつもより多くの沈黙があったように感じられました。「読み終えてみて、自由になれそうに感じられましたか?」という質問をしてみると、参加者の皆さん即答できないようでした。もちろん私個人としても、複雑な想いが残りました。私たちは自分が今自由な状態であるかどうかも、強制された状態にあるかどうかも、ひょっとすると理解できないかもしれない。それでも、それを自問しつつ問い続けるということが大事なのではないかな、というご意見があったように思います。

 本書最後に締めくくられた言葉「わずかな希望」という言葉について、参加者の皆さんがそれぞれどのように感じられたのか明確に知ることはできませんが、何となく「終わったような気がしない」そんな最終回でした。

テキストによって投げかけられた問いかけと「わずかな希望」についての模索は、読み終えた今から始まるのかもしれません。

第8回 読書会『中動態の世界』8章 感想

中動態の世界8章

 

11名の皆様のご参加ありがとうございます。
 
8章は、中動態の根幹とも言えるスピノザの議論について論じられていた章だったと思います。
 
章の前半では、スピノザが文法研究そのものに対して強い関心を抱いていたことがわかりました。そして、「行為する者と行為を受ける者が一つの同じ人物である場合がある」として、動詞の六つ目の基本のカテゴリーとは別に七つ目のカテゴリーに注目していました。
 この七つ目のカテゴリーこそ、スピノザ哲学においてはお馴染みの概念「内在原因」と深く結びついています。
 
 スピノザは神なる実体とはこの宇宙あるいは自然そのものに他ならず、そうした実体があるのだが、そうした実体が様々な仕方で「変状」したものとして万物は存在していると考えた。すなわち、あらゆるものは、神の一部であり、また神の内にある、と。したがって、神は万物の原因という意味では作用を及ぼすわけだが、その作用は神の内に留まる。神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。それは確かに「動詞七つめの形態」でこそ表現される事態である。(pp.236-237)
 
 
スピノザは、「中動態」という単語を用いたことはないが、彼の思想の中に、中動態を見て取ることができると國分さんは主張しています。
 
 
 

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中動態 スピノザ1

 


そしてこの「内在原因」というスピノザ哲学から、神の外には何もないので、神に影響や刺激を与えるものはないことはわかります。しかし、そのなかにある様態の一つである私たちは、違います。様態同士が互いに影響を受けたり与えたりしながら、影響い、変状してゆくことが言われています。

 

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中動態 スピノザ2

 

 

さて、ここで重要なのは、因果関係の中にある私たちと、そして、そのなかにあってもなお、語ることのできる「自由」についてだと思われます。
 
 
 生じている中動態的・内的な過程は、個物それぞれ違うであろうし、人であれば、人それぞれ違うものになる。同じ刺激を与えられても、人によって様々な反応をするように。そこに、その個物の「本質essentia」があると考えられています。
 そのように考えてみると、私たちは存在する限り、外部から様々な刺激や影響を受けざるを得ないけれど、私たち一人一人が「個としての本質」を持っていて、影響を自らに受けながらも、私たちが持つ「個としての本質」が私自身がどう変状するかを司ることができるのだとしたら、そこから人間の「自由」を定義することができるとスピノザ、そして國分さんは考えているようです。
 
 

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スピノザにおける自由

 

 

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スピノザにおける強制

 

 スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、我々は自由であるのだ。ならば自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。(p.262, l.6)
 
 何度も自由意志あるいは、意志の存在について否定的な見解を述べてきた。だが、自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることと全く矛盾しない。自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道を塞いでしまう。その信仰は、ありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(ref.263)
 
 

「優しさって何?」

 

「優しさって何?」レポート

 

2018/12/04

対話と思索のお茶会

「優しさって何」

 

 

集ってくださった11人の皆さんと「優しさ」をテーマに哲学対話を行いました。

 

優しさは「反射的行動」?

 優しさって言ってもほとんどが利害関係を超えられないと思う。でも、反射的に動いてしまうというのは本当の優しさなんじゃないかな。目の前で倒れている人を助けるとき、利害関係なんて頭にないから。

 

本能の中に優しさがある?

 母猫が子猫を舐めるように、子猫が怪我をしたらそこを母猫が舐めるように、動物的な本能の中に優しさが備わっていると思う。だけど、人間には社会性があるから、利害関係の中でうまく優しさが発揮できないんじゃないかな?

 


優しさは思考以前のもの?人間に元々備わっている?

 優しさは元々あるのに、人間社会の生活の中で曇らされて汚されていくから、素直に出せなくなっていくんじゃないかな。例えば神道では、そのためにお祓いをする。払うというのは、積もり積もった塵を払って、本来あるものが出てくるようにするために。優しさは元々備わっているものだから、考えるものでもなく、自ずと出てくるものだと思う。いじめ問題だって、本当は助けたいのに、助けたら自分もやられるのではないか、ということを考えてしまって、本来持っている優しさが発揮できなくなっているとも考えられるよね。

 

 こうした考えの流れの中で、「じゃあ、やっぱり利害関係があると思う」という声も出てきました。本当は自分は利害関係のない優しさがあったらいいなと思うけど。二人以上の人間がいれば社会が生まれる。種の保存が本能的にあるから、人が社会で生きて行こうとするときに、利害関係は越えられないんじゃないかな。

 

 

優しさは人間にもともと備わってない?人間は与えるのは苦手?

 人間は生まれた瞬間から親から愛を与えられて育つ。優しさを受ける側であり続けることが人間の成長の過程の中にあるから、育つ過程で無償の愛を受けとめてしまっている。それは私たちにずっとつきまとっているんじゃないかな。だから、逆に自分から相手に愛を「与える」ということは苦手なんじゃないかな? そうでなければ、どうして戦争とか人を殺すとかが続いていくんだろう。だから「与える愛」は学習されていかなければならないのだと思う。学習するために「与える愛」としての宗教が発生してきて、そこから人間は学ぶ必要性があったんじゃないかな? 本来的には、奪うだけ(受け取るだけ)の育ち方をしている。そして、それではダメだということを人間は学習していくのだと思う。

 

 

優しさと親の影響?

 育児を放棄して居る親がたくさん居る。生まれながらの優しさはなくて、親からもらう優しさの影響は大きいと思う。親から貰えなかった人は、第三者から優しさを受けて、学んで行く人もいるんじゃないかな。孤児や施設で育った人の中にも優しい人は沢山いるから。親に限らず、生まれてきてから、優しくされてきた経験の蓄積で、人間はどんどん優しくなっていくのかなと思う。

 

利害関係を超えた優しさはある?

 自分のいのちを守るため、自分という存在を維持するために、自分を守っていかなければならない。だけど、それを越えたところにある人もいると思う。自分は死んでも人を救ったり助けたり愛したりする人も歴史の中にはいるし、いたと思う。もちろんそれを否定する言い方もあるかもしれないけど。だから必ずしも、利害関係を超えた優しさは無いとは言い難いんじゃないかな。

 

何が私たちを利害関係を超えた優しい人間にしてくれるんだろう?

 私たちは、日々、誰かの優しさに触れている可能性がありますよね。それでも、実際は多分、利害関係を超えた優しさをもつ人間になれている訳ではないですよね。相手が良かれと思ってしてくれた優しさを気づかずにいることもあるだろうし、優しさだと受け止められないときもあると思う。じゃあ、どんな「優しさ」に触れたとき、人は変化させられるのだろう。

 

 これに対し、興味深いことに、利害関係を少し超えた優しさに出会った時というご意見が寄せられました。

 

自分がどうありたいのか?

 自分の優しさをどうしたいのか、どうありたいのか、という考え方を持っているのも大事だと思う。自分以外のところで、優しさとか利害について議論するんじゃなくて、自分の優しさはどうありたいのか、どうしたいのかを考えて行くことも大事だと思う。

 

 

利害関係は「超える・超えない」ではない?

 例えば、会社の社長同士だとして、お互いが利益になるようなことを一緒に考えようとすることもあると思う。自分の利だけを取ろうとするのではなく、一緒になって利になることを考えていこうよ、というのも優しさかもしれない。そうすると単純に利害関係を超えるとか超えないとかという話では言えないものもある。

 

 

自分への優しさと相手への優しさは同時に成立する?

 自分のいのちを守ろうとしたり、自分の健康を気遣うことは利己的とは言わないと思う。自分も一人の人間として、自分で自分に対しても優しくしながら、他者のことも想うということは、相反するわけではないんじゃないかな。両方同時に持てる想いなのではないかなと思う。

 

 

より高次の優しさ?

 相手がその優しさを喜んでくれようがくれなかろうが、「優しくあろうとする」ということができる方がより高次な感じがする。相手が自分の優しさを受け取って「優しい人」だと思ってくれるから、さらに優しさが発揮できるということがあるとしても、それがなくても、嫌われてもなおかつ「優しくある」ということが必要な場合もあるんじゃないかな。

 相手の受け止め方はその人にとっての「優しさ」の観念であって、自分にとっての「優しさ」の観念はまた別にある。一致するときもあるし違うときもある。

 

 いつかわかってくれるはずだ、というのもない。お互い人間だから、最後までわかってくれないこともあると思う。すごく優しいことをして、人生を人のために生きた人が、過去にいっぱいいたと思う。そのことを誰にも告げられず、誰にも知られることもなく、優しさを受けた本人も気がつくこともなく死んでいった名もなき人たちも沢山いたんじゃないかな。

 

 

優しさと時間軸?

 優しさには共感力や想像力が基礎として関わってるんじゃないかな。だから、後天的に磨くこともできる。他者に共感してもらった分、人に優しくすることできる。人にきちんと優しいと伝わる成功事例と、優しさ伝達失敗事例もあると思う。

 時間軸もあるんじゃないかな、その場で伝わらなくても、その時は、失敗事例に思われることもあるけど、後で成功事例に変わることもあるかもしれない。一概にその場の反応だけで「優しさ」の判断はできないんじゃないかな。

 


行動力と優しさ?

 「行動力があることがある=優しい」ではないと思う。何もしなかったから、優しくないというわけでもない。目の前に倒れた人を見てオロオロしてしまい、どうすることもできなかった人が、実際に行動した人よりも優しくなかったのかというとそうでもないのではないか。

 

これについて、別の方からもフォローが入りました。

知識のない人が倒れた人を不用意に起こすと、かえって容体を悪化させるかもしれないよね。

 

 

優しさを比べない?

 「優しさ」を他者同士で、あるいは自分と他者とを比較しなくても良いんじゃないかな。人それぞれの「優しさ」の精一杯がある。第三者が見たときには、かなり差があるかもしれない。でもそれを比較して、あれこれ言うこと自体がいいのかどうか・・・。その人は、その人なりのめいっぱいの優しさを発揮したんじゃないかな?

 

 

99対1の構図

この話題でも複数の意見が出てきました。

 

 100人の中で99人対一人の状態になった時、その一人のために立ち向かうのが優しさかなと思う? 心の中で助けたい気持ちはあるけれど、行動はできないということは多いと思う。

だから、利害関係があるのがほとんどじゃないかなとも思う。なかなか利害関係はずっと付きまとってくると思う。

 

 大勢の中でいじめられている人の存在に気づいても、どうするかの前段階で、自分がどうありたいか、というのが大切なんじゃないのかな?

 

 99人を敵に回して、どう助けられるんだろう?助けられる人には、何らかの知恵や力などがないといけない。状況を悪くしないために、何もしないという選択をすることもありうる。だから、それは優しいとか優しくないというよりも、技術(知識や力)の問題じゃないかな?

 

 

相手がどう受け取るか?

 あの時の行動は正しかったのかずっと気になっているという方もいました。過去の自分の行為に対して相手がどう受け取ったのかを今でもずっと心のどこかで気にしている、というご自身の体験を踏まえた意見もありました。

 

 

優しさが相手を惨めにすることがある?

 優しさを受けることで、自分にとって惨めな気持ちになることもありますよね。でも、後から感謝する気持ちになったかもしれないし、そうでもないかもしれないですよね。

 

 

相手がどう思ったか気になる?

 相手が喜んだかどうか感謝してくれているかどうか知りたいですか、という質問に対して、「事例にもよるけれど知りたい」という考えが多いようでした。

 

 結果に興味がなかったらそもそも行動に移さないな、という意見もありました。

 

 

受け取られ方は結局分からない?

 優しかったかどうかなんて結果をいちいち考える必要あるのかな? 相手が優しくあったかどうかなんて分からないということが、普通のことなんじゃないかな。逆に言うと、「自分が優しくした」ことに自信を持つしかない、と言う考え方に立つしかないんじゃないかなぁ?

 

 

私たちは優しさを求めてる?

 「自分には優しくしてほしい」ということを私たちは求めてるんだとおもう。 実際は全然そうではなくて成り立たないことがいっぱいあるんだけど。

 「今日も優しさを求めてここに来ました」という発言に参加者からは笑みがこぼれました。

 

 

利害関係は無くならない?

 私たちは、生きている限り利害関係から離れられないと思う。そうだとしても「優しい」ということは考えられるんじゃないかな。

 

本当の優しさとは?

 「自分が優しいことをした」と相手に思ってもらいたい、というのは本当の優しさなのかな?

 

 

優しさと行為の関係性?

 行為する・しないは、最終的な選択だと思う。行為を選択する前に気持ちがあって、優しい気持ちで考えた上で、行為すべきだとか、すべきでないとか、できないとか・・・。

 言動はその人の答えだと思う。「結果」と捉えたときには、それが成功したのかどうかは知りたい。もちろん悪意を元に選択されて出てくる行動もあると思う。優しさは行為の手前にあるのかな。

 優しさの前に相手のことを想像すると言うことがあると思う。もちろん悪意についても言えるけれど。想像するから優しさが芽生えるんだと思う。優しさにおいて、想像の範囲や度合いも人によって違うと思うけれど、それが比較的多く広い人が優しい人なのかなという気がする。

 

 

悔いるとは一体なんだろう?

 仮に、必ずしも「行為=優しさ」じゃないとしたら「悔いる」とはどういうことだろう? 親や肉親を看取ったとき、もっと優しくしておきたかったと悔いる人がいる。その人の胸の内には優しさはたくさんあったけど、行為は十分にできなかったということがあると思う。そこで悔いるという思いが芽生えるということは一体どういうことなんだろう?

 

それに対し次のような意見もありました。

 そういう意味ではやっぱり行為した方がいいと思う。行為しない選択もあるけど。優しくしたい相手がいるならば、行為した方がいい。

 

 

優しさの対象について?

 「興味ない人や嫌いな人には別に優しくしたくない」という正直な意見に皆さん笑みがこぼれました。

 そもそも嫌いな相手に優しくしたいという気持ちが起こってこないよね、という別の方からのフォローもありました。

 

 

 想像と存在について?

 無関心な相手は、もう自分の世界に存在してないようなものじゃないかな。だけど何かのきっかけで登場人物として今まで自分の世界にいなかった相手が、自分の世界に現れてきたら、想像や共感の対象になり得ると思う。想う矛先ができるということかな。想像できなければ存在していなってことだと想う。想像できた時点で存在している。

 

 

優しさは受容すること?

 「優しくすること」と「優しさ」は、分けて考えた方がいいと思う。私は受容すること、受け入れることが優しさだと思う。受容するとは、相手の立場に立つということ、相手の気持ちを受け止めることだと思う。

 

 

受容できる人が利用される?

 受け入れるという優しさを持っている人が潰れていく現状もあると思う、という意見もありました。

 

 優しくされたいという人や、その優しさを利用する人もいると思う。まったく悪意無くその人が使われてしまうということがあると思う。どんどん仕事が回ってくる。受け入れ切れなくなって潰れてしまう。

 

 この話の展開に「よくわかる!!」という、経験者の一声も。

 

 

共感と行為は別物?

 共感はするけど、それによって行為を「するか・しないか」は別の話だと思う。でも共感の思いが強くなると、場合によったら手伝うかもしれない。手伝ってもらった側は楽になる。それで、「悪いんだけどお願い」と言う人が一人増え二人増えということはあり得る。

 

このような議論の流れに対して、「優しさが持ってる欠陥とも言えるかもしれないなぁ」という一言も。

 

そして次のような意見もありました。
「受容」と「共感」と「行為」は、それぞれ分かれていると思う。テクニックもあると思う。

それでも、優しさを考えたときに一番最初にくるのは「受容」かなとも思う。

 

まとめ

今回は、とても濃厚な議論となりレポートをまとめることがとても難しかったです。「優しさ」について真剣に考え探求していく過程のなかで、皆さんのなかから現れてきた様々な意見がどれも本質に迫ってゆき、深く濃いものにしてくださったと思います。ご発言された方ご自身にとっては、何気ない言葉だったかもしれないものが、それら全てが「優しさ」の輪郭を少しづつ多角的に見えるようにしていったと思います。ご参加ありがとうございました。

 

 

「感情的じゃダメですか?」

 

「感情的じゃダメですか?」ここテツ レポート

 

聞いて・話して・考えるここから始まるテツガク

「感情的じゃダメですか?」

 

感情的であるよりも理性的な方が良い?理性だけでもダメ?どんな時は感情的であっても良いの?

どんな時は理性的でなければならないんだろう?そもそも感情と理性はどう違うの?

  

 

 

10代から70代までの総勢15名の参加者が一つのテーマの元に集いました。

 

対話のなかで、感情とは?理性とは?ますます迷宮に陥るような不思議な印象を受けました。

 

私たちは、普段当たり前のように使っている「感情」や「理性」といった言葉をどれだけ理解して使っていたのでしょう。

分かったつもりになっていた言葉を、思わずもう一度辞書を引きたくなりました。

実際に辞書を引いてみられた方はいらっしゃいましたか?

当たり前のものとして、もはや確認すらしないものを、もう一度改まって確認してみると新鮮な発見があるかもしれません。

 

 

 

さて、以下で皆さんとの対話の内容の一部をご紹介します。

 

 

そもそも感情と理性は対義語なの?

 

感情の対義語は、感情がないのだから無関心なんじゃないかな?

だけれども実際のところ、私たちは、普段、理性の対になるものとしてよく感情を用いる気がするのだけど、それは一体どういうことだろう?

 

 

 

感情も理性もコミュニケーションに関わる?

 

感情は分かりやすくて人に伝染しやすい。そうした意味では、感情は良い意味でも悪い意味でも力を持ちうるのではないかな。

理論的に整っているだけでは、人の心を動かすのは難しいのではないだろうか?相手の心を動かすには、共感が大切で、共感とは感情のことじゃないかな?

 

 

 

 

理性は、第三者の視点?

 

理性には、どこか自分自身を俯瞰して見ているような第三者的な視線があるんじゃないだろうか?ひょっとするとその第三者的な視点は、コミュニティの中における・日本の中でおける・世界の中における・宇宙の中における・・・と、そうしたところまで私たちは考えを及ばせることができるんじゃないかな。
理性とは、自分が自分でありながらも、自分の主観から少し身を引き離すようなことが起こっているのかも知れません。そうだとしたら、とても不思議にも思えます。

 

しかし、次のような新しい疑問も出されました。

 

私たちは、どこまでいっても自分自身であって、第三者的な視点だって、やっぱり自分自身なのであって、他人から見たら、やっぱりそれも含めて、ただのその当事者本人なのではないでしょうか。

 

私たちは、本当に客観的であることなどできるのか?というのは、理性とも関係のありそうな問いです。

 

 

 

 

理性と感情の狭間で

 

この哲学対話の時間の間ずっと感じられたのは、理性と感情をきっぱりと区別することの難しさでした。

 

どうやって自分が感情的か理性的か判断できるんだろう?

 

私たちの全ての事柄には、感情がこもってるんじゃないかな?

でも、感情だけで突っ走ったら、自分も痛い目を見るわけだから、その辺りは、理性でコントロールしているんじゃないかな?そうでなければ、自分が痛い思いをするのだから。

 

感情的であるということは人間的であることだと思う。感情をある程度出さないとストレスが溜まってしまう。どれだけ感情を素直に出せるかが、楽しく暮らせる生活に繋がると思う。

でも、大勢の人と一緒に生活していくためには、理性的に感情を抑えなければならないことも多いけれど、そのバランスが難しいと思う。

 

どうやら、理性は、感情の制御ブレーキの役割を担っていそうな意見もちらほら出てきました。

 

理性というのは、論理的であるかどうかであって、思考の問題なんじゃないかな?

理性の「理」は「ことわり」だもの。

 

研究や学問が論理的であっても、その何処かに情熱や探究心があるんじゃないかな?両者は相反する訳じゃないのかも知れない。

 

 

 

 

どんなものに感情は向くのか?

 

数式の定理や天体の動きは理路整然としていて、ある意味では、理論的であるにも関わらず、「美しい数式」「美しい星の動き」というのが言えるんじゃないかな?

 

物質であっても、その向こうに人がいると思えたら、感情が動くんじゃないかな?

 

一方で、夕陽や星を見ても涙することがあるという意見も。

 

人でない何物かに気持ちが動くとしても、それはただ、自分のその時の気持ちを投影しているだけなんじゃないかな?
でも本当に、単に自分が自分を投影しているだけだとも言い切れるのだろうか?

 

 

 

 

相手に自分の感情を伝えようとする時に理性を用いる?

 

自分の感情が間違って伝わらないようにするために相手への言葉を慎重に選ぶ。

 

メールなどの文面だと冷たい印象を与えやすいので、あえて絵文字を使うようにしている。

 

そのようなお話の中で、相手にどう伝わるのかを配慮し、自分の感情を伝えようとする時には、どこかで自分本位な視点から離れて、相手の立場を配慮しているのではないかな?

そうだとしたら、どこかで理性的でなければ、伝えたい感情も正しく伝わらない?

 

 

 

 

感情の量は多い方がいい?

 

感情を想像力の豊かさにつなげて考えられる方もいました。

感情は理性のように秩序立っていないかも知れないけれど、逆に言えば理性の範疇を超えていくことのできる不条理さがあって、それは人間の持つ豊かさとも言えるかもしれません。

 

一方で、某国の大統領であるトランプさんやヒットラーを例に、感情的なものは分かりやすいからこそ伝染しやすく、ある意味では、恐ろしさもあるのではないか、というお話も少しありました。

 

 

 

 

まとめ

 それぞれの皆さんの意見や疑問を発展させる形で、もう少し深く別のテーマで対話ができそうだなと思いました。

哲学と名がつくと、何か難しいお話をしなければならないと感じるかもしれません。しかし、この哲学対話の場では、「こんなこと話しても仕方がないし黙っておこう」と思われるような内容でも、その場にいる参加者の全員にとって、新しい考えや発想を与えてくれることが良くあります。

自分にとって当たり前の言葉が、みんなにとっても当たり前とは限りません。

そうした意味でも、参加者お一人お一人の言葉がとても大切となる場所です。

 

今回は「感情」と「理性」について、年齢や立場を超えて皆さんと共に考える時間を作ることができました。

皆様のご参加ありがとうございました。