てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

第4回 読書会『中動態の世界』4章 感想

4章を読む

この日は、全14名での読書会となりました。

 4章を扱う今回から、初めてご参加くださった方も何人もいらっしゃいました。

 1章から3章までの内容について何が書かれていたのかをおさらいすると、その内容だけで1、2時間経ってしまいそうですので、おさらいする時間はとっていません。

 そのため、初めて参加される方は、突然の4章からの内容に「難しい!やっぱり哲学は自分には縁がない!」と思われるのでは・・・と主催者としては少々気になっておりました。

 ところが、終わった後、「難しかったけれど、面白かった!」というお声が聞こえてきてきました。大変嬉しかったです。 (お申し込みの際、「事前に本書全体の導入である1章だけでもぜひ読んできてください、その方がきっと当日楽しんで頂けますよ。」とお願いはしています。)

 

また、哲学的に思索しようとすると、話題が果てし無く飛んでいってしまう可能性を常に秘めていると思います。

もちろん、それは悪いこととは言えないけれど、最初の話が何であったのかが分からなくなる、ということもしばしば。

しかし、参加者の中から、丁度今行われている議論を整理してくれる人が現れると、議論の質がぐっと深まってきます。

 

 

 

さて読書会では、何が焦点になったのか。

今回の読書会での主な論点は、「言語と思考の関係性」とは何か、そして、國分さんの分析によるバンヴェニストに対するデリダの批判だ。

 

 

 

アリストテレスのカテゴリー論ー

 

4章では、2章で登場したアリストテレスのカテゴリー論(p44)

が再登場した。

 カテゴリー論とは、「私たちが物事を認識し語ることができるようになるための基本的な枠組み」のことだ。 言語学者バンヴェニストは、「経験を分類するための普遍的な枠組みとして提示されているこれらの項目は、もしかしたら、アリストテレス自身が話していたギリシア語という言語の文法をそのまま反映したものかもしれない」(p45)と仮説を立てた。

 2章では、カテゴリー論については、ここまでしか触れられていなかったのだ。 言語と思考が何らかの関係を持つことを前提に本書が進んでいたのは分かっていたけれど、私たちが何かを認識するということと、私たちの言語は直接的に結びついているのだろうか?

全ては言語に還元されるのだろうか?(「否」と國分さんは述べているようだ)

 

バンヴェニスト/デリダ/國分さんー

 4章では、國分さんの主張したい「言語と思考の関係(言語は思考の可能性の条件である)」を裏付ける根拠や材料として、バンヴェニストの論説が取り上げられている。

 

しかし、バンヴェニストの説に対して強力な批判を行っていたのがデリダだ。

國分さんは、自らの主張の根拠としてバンヴェニストの論文を用いたいわけだから、デリダからバンヴェニストに向けられている強力な批判を論破しなければならない。

この作業によって、國分さんの説はクリアにして強固になるということだ。

 

 様々な聞きなれない研究者の名前も登場し、この部分は、とても論理的な作業が含まれていたと思う。

 議論では、「バンヴェニストを批判するデリダ、を批判する國分さん」という構図をなんとか解釈しようとする時間も生じた。

 ひょっとすると「バンヴェニスト」「デリダ」「國分さんの主張」が入り乱れるように感じられたかもしれない。

 

 

ー本当に注目すべき点はバンヴェニストが提示した新しい定式ー

 

 このバンヴェニストデリダの批判の分析の過程で、デリダが「バンヴェニストは思考を言語に還元している」と思い込んでいたように、実は、2章の時点では進行役もデリダと同じ思い込みをしていた。

 

 デリダには重要な点で見落としがあったようだ。

 

  バンヴェニストの論説の中で、本当に注目すべきところは、「言語は思考の可能性の条件」と言う新しい定式を提示している点にあるということらしい。(國分さんの指摘によるとデリダはこのことを見落としたようだ) 國分さんの重要な主張もここにあると見て良さそうだ。

 

人が考えうることは確かに言語に影響される。

だが、それは言語が思考を規定するのでも、思考が言語に還元されるのでもない。

言語は、人が考えうることを規定する。つまり、思考の可能性に作用する。

作用するためには、作用が展開される場がなければならない。

その諸作用が織り成される場こそ、語られ・思考が紡ぎ出される現実そのもの、つまり社会であり、歴史に他ならない。(p109-110にかけての要約)

 

 

 さて、ここまで述べられても、未だに理解するのは容易ではない。議論では、この点も焦点になりました。

 言語って直接思考を規定してるんじゃないの?言語が直接思考を規定しないってどう言うこと?思考の可能性に作用するとは一体?

言語 ー 思考 ー 場(現実・社会)の関係性とは?

 

簡単には掴みにくいものがある。

國分さんの述べられている次の箇所が何だかヒントになりそうだ。

 

★「オオカミ」と言う単語を持たない言語があるとしたら、その言語の使い手たちが、オオカミを特別に認識する必要を持たなかったからにすぎない。単語の不在は出発点ではなく結果である。(p113)

 

 なるほど、確かに言語には、言語の使い手たちが身をおいている社会が場として関係している。そして、その言語は、彼らが考えうること(オオカミを特別に認識する必要がない)を規定しているとも言えそうだ。

 

 

古代ギリシア語は、冠詞を付すことでありとあらゆるものを名詞として扱うことができるという特徴を持っている。(p115)

「在る」ειμιを意味する動詞(英語で言うbe)が、冠詞を付すことで「存在する物」το ον(英語で言うBeing)になる。 このギリシア語の独自性が「存在を問う」ことを可能にさせた。

存在を問う、まさに哲学的な探求へ向かわせることの素地(思考の可能性)が言語にある。

 

 

ーやっぱり分からないー

そうは言っても、未だ國分さんの主張している「言語と思考の関係性」を理解することは簡単ではない。

卵が先か鶏が先か、などと一方から一方を導き出そうとしたり、どちらかに優位性を設けようとしたがるから國分さんの主張を理解することが難しいいのだろうか・・・。 言語決定論の説は、ひょっとすると極端で単純化?されているがために払拭し難いのかもしれない。(少なくとも進行役にとっては)