てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

第2回 読書会『中動態の世界』2章 感想

第2回哲学読書会

『中動態の世界 意志と責任の考古学』2章にご参加くださった12名の皆さま、ありがとうございます。
哲学カフェに何度も参加されて来て議論慣れして来た方、初めてのご参加でもたくさん質問してくださる方、静かに議論に耳を傾ける方、年齢も職業も全く多様な方々集まる中で、お一人お一人が哲学の場を作ることに協力的であったことに感謝します。

文を読む中で、不確かであったところや、誤解して読んでいたところも、対話の中で糸口が見つかって行ったことを実感できた回でした。

また2章目に入った今回でしたが、初めて参加された方が「能動態とか中動態とか言語の話をしているけれども、結局私たちの生活とどう関係してくるの?」という根本的な質問をされました。
2章では特に文法に関する内容が中心だったので、ここで初めて参加された方は違和感を覚えられたことと思います。しかし、この率直な問いかけによって、もう一度「おさらい」として第1章を振り返る瞬間ができました。一人の方の質問が、ほかの参加者の助けになることが沢山あります。
 

第1回 読書会『中動態の世界』1章 感想

3月17日第10回 

第1章を終えて

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8名の方が、参加してくださりました。
数人の方が既に読み込んでおられたこともあり、より内容に踏み込んだ議論が行われたと思います。
 
参加者が質問や疑問を自分なりの言葉で発言しようとする時、別の参加者が、その内容を「つまりこういう意味ですか?」と端的にまとめて確認し、議論を助けようとする様子もありました。
 何とか自分の考えていることを使えたいのだけれども、それをとっさに的確な言葉にまとめることは難しい場合が多いです。それを、別の方が助けて、対話の場を作って行く様子があり、そのことによって質の良い対話の場所が作られたと感じました。
 
 「能動と受動」の区別についてと、もう一つ「意志」の問題があり、この両者について混乱しがちな様子もありました。丁寧で優しい文体ではありますが、内容はなかなか高度です。しっかりもう一度読み直さないと難しいな、という声も聞かれました。
 
 また、「私がする」と「私がされた」がよくわからない状況の具体的な例が参加者の中からあげられ、「能動」と「受動」の区分が出来ようできないケースに想像を巡らせる助けとなりました。
 
 「能動と受動」の区分が、ただ単に社会的要請に従って生じているだけなのではないか。そもそもそのような区分は存在しないのではないか、などという意見もありました。
 
 今回の読書会では、第1章のみが範囲でしたので、中動態の具体的な内容には触れられておらず、想像で語るしかない場面もありましたが、次回第2章でいよいよ本題に入ることとなりそうです。
 

名古屋より出張哲学対話 in Tetugakuya 感想

【日時】10月28日(土)19時ー21時
【場所】アンティークと雑貨の店 Tetugakuya(香川県仲多度郡多度津町東浜2−22)
【テーマ】哲学カフェ「哲学カフェとは」
【主催者】Tetugakuya
ファシリテーター】ヤマガタ ハジメ
【参加費】1,000円
 
 
対話のみのスタイルでは、初めての哲学カフェとなりました。
参加者は10名程度。
 
 
前半で、今日のファシリテーターであるヤマガタさんに「哲学カフェとは何か」と題して、入門編の案内をしていただきました。
 全国に、本当に様々なスタイルの哲学カフェがあることがわかりました。
お酒を飲みながら開催するスタイル、子供だけの哲学カフェ、シニア限定カフェ、選挙や政治などを積極的に議題にする社会派の討論が多い哲学カフェ、発達障害の人々の哲学カフェ、科学技術とその使用に関する倫理性について市民が考えるカフェ、読書会形式、ゲーム形式。
 それぞれがみんなユニークで、その方法も千差万別。主催者に色々なタイプの人たちがいることがわかりました。

 後半は、時間が限られる中ではありましたが、哲学カフェを実践しました。
テーマはその場で決めるということになりました。「正しい戦争はあるか」をテーマに討論することになりました。
 
 実は、このテーマは機会があればやろうと店主が準備していたものでした。
「戦争」についてテーマに掲げると、「随分と攻めたね!」という反応がとても多かったのですが、これはいかに「戦争」を対話のテーマにすることがはばかられているか、という現実の裏返しのようにも思えました。「語らず・あえて考えず」という暗黙の空気があるようにも感じましたが、哲学カフェだからこそ議題にすることができると思いました。
 戦争をテーマにする時に、その悲惨さを語り、聞いて涙を流すということで、本当に「考える」ということのために十分なのだろうか。
 「戦争=悪」だと口にすることは簡単ですが、私たちは本当に何を知っているのだろうか。ひょっとすると対話の中で、私たちは戦争を良く思っていない割には「知らないこと・考えてもみなかったこと・気がつかなかった視点」があるのではないか。重要な問題だからこそ、「考えてみる」というところに立つ機会を持ってみたいと思いました。
 
 ここでは、「正義」というキーワードをどう捉えるのか、という問題が浮上して来たように思います。
 まず一つは、今回の問いの中に出てくる「正しい」という言葉ですが、「私的正義」としてなのか「普遍的な正義」としての「正しさ」なのか、これにより議論の内容が変わってくるのではないかという指摘があったように思います。
 
 また、戦争について語る時に、身近な例として、集団のいじめや個人同士の人間関係なども挙げられましたが、「国家間の戦争」と「私的レヴェルの集団や個人の問題」を同一に語ることができるのか。また、できないとしたら、それはなぜなのか、という問いかけがありました。
 これに対し、個人や集団同士の争いには、国の法律や裁判があり、正義の判断が行われるが、国家間にはそのようなものが存在しないために、両者を同一に語ることはできないのではないか、という意見がありました。
 また、ここで、確かに個人や集団の喧嘩には、裁判があるが、裁判の判決があるからといって、どちらか一方が正しいということが果たして本当に言えるのだろうか、という意見もありました。
 
 このテーマで「正しさ」を語る時に、結果論としての「正しさ」なのか、それとも今から起こる物事の行為や選択の「正しさ」を考えるのか、どちらなのかという指摘もありました。
 
 議論を進めるうちに、いくつか混同すべきではないかもしれない問題が、一緒に混ざって語られがちであることにも気づかされました。
 
 そしてもちろん、テーマの設定そのものに対する批判や疑問も多くありました。
 戦争に正しいも悪いも無いのではないかという意見もあります。
 そもそも戦争など起こらない可能性もあるので、戦争が起こるという前提で議論するのはどうなのか、という意見もありました。
 
 戦争がなぜ起こるのか、という問題にも話題が発展したように思いました。特定の権力者が民衆を扇動することによって起こるのか、あるいはいつの間にかそうなるのか、国家間の緊張関係により民衆の心理状態の変化が引き金になるのか。

 最後に、本当に戦争を経験し地獄のような悲惨さの中を生きた人々と比較すると、ここで行われている「正しい戦争はあるか」という対話そのものが娯楽のようなもので、このようなことを話して何になるのか、という意見もありました。
 参加者の一人一人にはそれぞれにバックグランドがあり、経験があります。本当に人の生き死に関わった人や、自らもまた生き死にの問題に投げ込まれ直面して来た人もいると思います。そこには、語ることすらできないものがあると感じている人もいると思います。「語る」ということがすでに軽々しいと感じ、深い腹立ちや悲しみを感じる人もいると思います。そのような人々にとっては、哲学など知的遊戯だと感じるかもしれません。私はそのような想いも、人々のうちにある1つのリアルな本音だと感じました。
 
 ここでテーブルを囲みテーマを掲げて対話をしている私たちは、確かに実際に戦地にいるわけではありません。テーブルを囲んで話しているだけです。それは紛れもない真実です。
 では、このことに意味は無いのかというと、意味があってほしいと思っています。「意味があってほしい」というのは、そこに参加する参加者の一人一人によるものだからです。決して主催者やファシリテーターが提供できるものではありません。
 
 この場は、どんな団体や組織とも利害関係がなく、参加者同士の立場に上下関係もありません。共に、問うたり考えたり知ろうとする者として対等な関係です。だからこそ、忌憚なく問い考えることができます。
 対話を行い、結論を出すことよりも、答えを見つけようとする過程が大切で、この過程の中での気づきや発見の積み重ねが、その人を知的に謙虚にしてゆき、また自分の力で思考するための力を育て、意見の違う他者と対話する柔軟さも養われて行く機会になると思います。まさに、この中に平和を構築するための要素があると思います。
 しかし、それは誰かが誰かに植え付けられるものではありません。 哲学は教えることはできず、自らが主体的に哲学するほかないのです。そしてそれは簡単ではなく、実に時間のかかることだと思います。 
 
 自分こそは、よく考えられる人間で、よく人の話を聞ける人間だと思っていても、対話の中で常に試され、また自分の思い込みも打ち砕かれる機会もあるでしょう。あるいは、自信満々に意見しても、反対意見の方が有力な時もあるでしょう。それが哲学カフェだと思います。
 
 今回は、実践で対話の時間が短かったので、残念でしたが、興味や関心を持って参加される皆さんお一人お一人によって、今後もまた、より良い哲学カフェになると良いなと思いました。
 



 

主催者として感想 ー全9回にわたる読書会を終えてー

ー全9回にわたる読書会を終えてー

主催者として一参加者として

 

先日9回目の読書会にて、一冊の本を読み終えましたので、その感想を書いてみました。

 

 読書会を終えてみて、改めて気づかされるのは、この文字の向こう側に「人」がいるということです。 言葉に限りませんが、私たちは、言葉尻だけ捉えて憶測で批判をしたり、印象で語りがちですが、真剣に書物と対峙してみると、すでに答えやヒントとなるような内容が書かれていたりすることも多いです。 

 そして、自分が納得のいかない点があるとしたら、まず、誤解釈していないか、相手がそれについてすでに語っていないか、相手はそれについてどう考えているのか、を注意深く探るということの大切さにも気づかされるます。

 自分が注意深く相手が言わんとしていることに対峙した上で、なお、自分の疑問に相手が答えていない、ということが明らかになることも、もちろん多々あります。

 しかし、自分が注意深く対峙した上で批判するのと、憶測や印象で批判するのとでは、その批判がもつ力が変わってくることにも気付きます。 

 この時、「批判する」ということが、単純に「相手のことを悪くいう」、「相手を負かす」ということとは違い、相手が担えなかった問題を自分が担うということだとも思えます。勝ち負けではなく、こうして共に良い形で影響し合いながら、より良い答えを模索するということが大切だと思いました。 

 

 対話のみの形態だけではなく、読書会という形態は、辛抱強く丁寧に書物に向かい自分の考えや問いを深める訓練の場にもなっていたと思います。

 

 

 

第9回 読書会『愛するということ』感想

第9回目の読書会

 
参加者は、全7名となりました。

第9回テツドク 『愛するということ 新訳版』エーリッヒ・フロム著
【日時】2017年7月22日(土)19~21時
【場所】アンティークと雑貨の店 Tetugakuya(香川県仲多度郡多度津町東浜2−22)
【テーマ】『愛するということ』エーリッヒ・フロム著
【主催者】Tetugakuya
【参加費】500円(ワンドリンクがつきます)
 

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【テツドクの概要】
 テキスト第4章の中の部分的な範囲を、一段落ずつ参加者が輪読し、その後疑問などを出し合って話合った。特に、4章の中で、「ナルシシズムと客観(p.175-)」と「信念(p.180-)」について着目し、話し合いました。

 このレポートでは、「信念」についての議論は割愛させていただきます。

 フロムは、ナルシシズムと客観を対極の関係をみなしています。そこで、フロムがここで述べようとしている「ナルシシズム」の意味の解釈を巡って議論になりました。
 
 愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。
 ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージとを区別する能力である。(p.175-176)
 
 手元の本をめくり前のページを参考にしながら、フロムが「ナルシシズム」をどのような意味で語っているのかを探りました。「自己愛(P.92)」の項目で、ナルシシズムが利己主義や自己愛と同じような意味で語られていることも指摘されました。そこから、「ナルシシズム
は、あるものが自分にとって有益かどうかという観点から世界を見ているということがわかります。

 ここで参加者から寄せられた意見の中で一部をご紹介します。
 
「人間は、客観性だけではつまらない。ナルシシズムの中にも面白さがあるのではないか」
「フロムはナルシシズムに対して否定的だが、誰もが自分のナルシシズムな見方を持っており、それと客観的な見方とを区別できるようにあることが愛の基本条件だと考えているのではないか。」
「本人が客観的だと思っていても、それが本当に客観的だと言えるのか」
「自分の物の見方が、自分よがり(ナルシシズム)になっていないだろうか?と注意深く自分に問いかけるしかないのではないか。」


参加者からの感想 ー全9回にわたる読書会を終えてー

ー全9回にわたる読書会を終えてー

 
参加者の方が書いてくださった感想をこちらからお借りいたしました。

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第8回 読書会『愛するということ』感想

第8回目の読書会

少人数ながら、大変充実した議論ができました。
 
 

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この回のレポートは、愛知県より参加してくださったYさんのレポートを引用させていただきます。
 
第8回テツドク 『愛するということ 新訳版』エーリッヒ・フロム著
【日時】2017年6月10日(土)19~21時
【場所】アンティークと雑貨の店 Tetugakuya(香川県仲多度郡多度津町東浜2−22)
【テーマ】『愛するということ』エーリッヒ・フロム著
【主催者】Tetugakuya
【参加費】500円(ワンドリンクがつきます)
 
【テツドクの概要】
 前半はテキストの149ページの5行目から、151ページの10行目まで一段落ずつ参加者が輪読し、その後疑問などを出し合って話合った。
 最初に、フロムは「偽りの愛」の一種とする「偶像崇拝的な愛」について話合った。偽りの愛があるなら、本当の愛というのがある。それは何か?フロムのいう「自分の能力の生産的な使用」とは何か?「自分の能力から疎外」とか、「恋人のなかに自分自身を見いだすどころか、自分を見失う」とはどういうことか?「二人精神病(フォリー・ア・ドゥ―)」とは何か?と。次々に建てられる問いについて、それぞれの意見や解釈や感想を述べあうだけでなく、『愛するということ』の初めの方に書かれたフロムの定義を確認したり、それまでに書かれている言葉から整合性がある解釈を考えたり、原著The Art of Lovingの英文の英語表現で翻訳の意味を吟味したりと、調べながら、読みを深めていった。
 次に関心はフロムが取り上げる「偽りの愛」としての「センチメンタルな愛」へと進む。一つは雑誌や映画のラブストーリーや、ラブソング、に感情移入する身代わりの愛であり、二つは過去の愛の思い出に涙したり将来の愛を想って感動するなど「時間的抽象化する」愛である。
 後半は151ページ11行目から154ページの14行目を同じように輪読しました。フロムが「投射のメカニズム」という心理学的視点による神経症的な愛が書かれているが、参加者の関心はほとんどひかずに、問いがでたのは「愛があれば対立は絶対に起こらない、という幻想」についてのところだった。
 フロムは「ほとんどの人の『対立』はもともと解決などありえないような些細な表面的なことがらで、仲たがいしているにすぎない」として、「二人の人間あいだに起きる真の対立、・・・略・・・内的現実の奥底で体験されるような対立は、けっして破壊的ではない。そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知と能力を得る」という。また「二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか、人間の現実はない。」という。
 難解な言葉ではないけれど、「表面的な対立」「真の対立」とは何か、「内的現実の奥底で体験されるような対立」「中心における経験」とは何か、なぜ「かならずや解決」するのか、それぞれの解釈を出し合い、その根拠となる各自の経験を話合ったり、フロムがそれまでどのようにしてその言葉を使用してきたのか、話合った。
 
<テツドクの感想>
 参加者どうしで哲学書思想書を自分たちの知識、経験、視点で読み進める読書会です。大学のゼミや授業の読書会によく似ていますが、哲学を学び続けたいという気持ちがある読書会です。私も学生時代を思い出しながら楽しい時間を過ごしました。比較的有名な本です。私がかつて読んだ旧訳版と今回の新訳版を読み比べると、collabolationの翻訳語の今昔を比較してそれなりに人口に膾炙したのかもしれませんが、翻訳語の変化を実感できて面白かった。読書会も一つの対話ですので、いろいろな読み方を知ることができて、読み方を深めることができます。専門家がいると、ついつい正解を知ろうと頼ってしまい、主体的な読み方をしなくなりがちです。読書と哲学対話が一度にできるし、哲学好きな人と交流できる。こういう哲学系図書の読書会が地元であればいいなと思いました。