てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

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思索と対話のお茶会「矛盾ってなんだろう?」

 

 

 

 

「矛盾ってなんだろう?」振り返り

 

思索と対話のお茶会1/22

「矛盾ってなんだろう?」

 

「それ矛盾してる!」と批判される文脈で聴くこともしばしば。

許される矛盾と許されない矛盾ってあるのかな?

あるとしたら、それはどんな差なんだろう?

ここでは、参加者の意見をいくつかご紹介したいと思います。

 

許せる矛盾?自分に被害があるかどうか?

 親しい人や関係者の言っていることとやっていることの矛盾は自分に関係してくるから被害を被る可能性がある。自分に降りかかってこない矛盾なら許せるかな、という意見がいくつか聞かれました。

 

矛盾って悪なの?

 矛盾しているということは、良くないこととして語られがちだけど、どうして矛盾は悪とされるんだろう?という疑問の声があがりました。

 

どうやって矛盾してるって分かるの?

 「言行の不一致」というキーワードは度々登場しました。

 

矛盾は個人の中で完結してるもの?

 矛盾は、その人ひとりの中で起きているもので、個人の中で完結している。例えば、「廊下を走るな!」と生徒を怒りながら廊下を走る先生とか。

 

矛盾は2者の関わりの中で起こる?

 上の意見に対して反対の意見が出てきました。自分個人の中で矛盾しているとしても、「私」とそして、別の「私」との間に起こるものあって、2者の構造があるのではないかな。「むじゅん」も日本語で書くと漢字で「矛」と「盾」の2つになるから。

 

 自分のなかの矛盾というのは、自分と自分の利害関係じゃないかな。自分で自分を傷つけることもあるから、と例を出して話される方もいました。

 

 

自分の中で矛盾が生じたときどうする?

 そんな質問に対してみなさんの答えは様々ながら、日常生活の中で何とかやりくりしているのが感じられました。

 寝る。酒を飲む。諦める。そういうものだと思う。時間に任せる。案外もっと大きな別のトラブルによってかき消されてしまうことも。

 これらの回答に、あるある!と親近感を覚えた人もいたのでは?

 

矛盾って簡単に乗り越えられるもの?

 絶対に何からも守る「盾」と絶対に何でも突き破る「矛」の2者が隣り合わせになって「矛盾」と言うのだということを考えて見ると、矛盾がいかに簡単なものではないかを思い知らされるような気がします。

 簡単に乗り越えられるものは、矛盾とは別の何かなのではないか、という意見もありました。

 

 

人間の抱える大きな矛盾は何だろう?

 最強の「矛」と最強の「盾」の組み合わせのように、どうにもできないような問題があるのか考えて見ました。

 例えば、私たちは生きて行くために食べなければならない。食べるとは、他のものの命を奪うことです。けれども、私たち人間は他の生き物と違って、悲しみや痛みを感じるために、他の生き物の命を奪うことを喜べない。豚や牛が殺されるところを見たくはないのに、食べることはする。生き物が死ぬのを見ると可哀想だと言うけれど、生き物を食べている。そうした内容は、矛盾の例としてどうでしょう?

 

地球にとって人間存在が矛盾?

 上の意見に対して、生きるために食べると言うことについてはそんなに矛盾には感じなけれど、地球にとって人間の存在が矛盾じゃないかと思う時がある、との意見がありました。

 他の生き物たちも、自分が生きるために食べていて、そして自分たちも他の生き物に食べられるという食物連鎖の中にいる。けれども人間を食べる他の生き物がいないから、地球にとって人間の存在が矛盾してるんじゃないかなと思う時がある。

 

 

矛盾してたっていいじゃない?

 矛盾してるから成り立ってる制度もある。仕事が待っているのに、朝起きられなかったりするなど、人からみると怒られるかもしれないようなことでも・・・・矛盾してたっていいと思う。

 

 そのように矛盾を肯定する参加者の発言される様子を見て、別の参加者の方から「だけど、まさに葛藤しているように見えるよ」との鋭いツッコミも。

 

 

どっちが先でどっちが後?

 問題が先に起きてそれが矛盾という形を取っている、との意見があれば、矛盾が先にあって対立しているものがあるとの意見も。

 

 

 

「矛盾」と「問題」は別物?

 矛盾と問題は別だよ。なぜなら、矛盾を問題に感じない人もいるから、という意見。

 

 これに真っ向から反対するのは、「矛盾は辻褄が合わないこと」を言うのだし、そのままにしておくと不利益が生じるから矛盾は問題でしょう!との意見。

 これは真っ向から対立する意見のようでしたが、だんだんと議論が進むと両者が結局は同じことを言っているのではないかと思われるような瞬間も出てまいりました。

 

 

矛盾に気がつくと発展してゆく?

 人生に矛盾はつきもので、乗り越えても乗り越えても次の矛盾がある。それが社会の在り方ではないだろうか。矛盾を乗り越えても次の矛盾があるということを前提に考える。矛盾を意識して解消しようとすることで、発展するものがあると思う。人間が「生きる」ということには、前提として「より良く生きたい」ということがあると思う。矛盾と葛藤してゆくことで、社会の風潮が変わるということもあるだろう。

 

矛盾は受け入れられない?

 矛盾をそのままにしておくなんて本当の意味で私たちにできるのかな?できないでしょう?矛盾を受け入れるということは成立しない、というのが人間の本性ではないのかな?

 

矛盾してる「学級目標」とそのプロセス?

 学級目標というのがある。最初は、ひとりひとりの宿題として学級目標の候補を作って提出する。その後、班になって、班のみんなで出し合ってお互いに考えてきた学級目標を組み合わせてより良さそうなものを作る。次に、班ごとに提出した学級目標が黒板に貼られて、多数決で決まってゆく。

 今年の学級目標は「個を尊重して団結する」に決まった。けれども、その学級目標は、教室なかに貼ってあるだけのものになって、誰も気にしてないし、誰も守る必要もない。こういう学級にしていこうという「建前」じゃないかと思う。そのことについても誰も問題だと思っていない。誰も気にしないし、守りもしない、その後、それについて考えることもしない。そんな学級目標を作っていく作業・・・そうだとしたら、この作業自体が・・・・無駄かもしれない。

 

 これに対して次のような反応がありました。

 

 「個を尊重して団結する」っていう標語自体にも矛盾が含まれていそうだね。そして、本当はそのプロセス自体も疑問にする方がいいよね。

 

 薄ら寒い感じがするよね。

 

 まさに「無駄だ」と気づいたら発展する。

 

 おそらく先生は「みんなで作るプロセス」を学ばせたいのだよ。それが社会に出たときに必要だから。

 

 学校のなかだけじゃなくて、会社でも似たようなことがある・・・。

 

「矛盾」それが人間じゃないか?

 

 毎日のなかに矛盾を見出そうと思えば、矛盾はある。生きていること自体が矛盾で一杯。それが人間じゃないか。

 

 

 

 

まとめ

 以上、皆さんのご意見を思い返しながらまとめてみました。学級目標のお話はとても興味深く、ひとつの例として考えさせられるようなものでした。「個を尊重して団結する」とはいかにして可能なのでしょうか。せっかく作られた学級目標をもとに対話される時間を先生が作られたら、とても素敵だなと想像します。

 難しいテーマだったと思います。日々の生活の中、矛盾があってもなんとか過ごしてゆくということや、心の葛藤としての矛盾についても語られました。一方で、地球から考える、社会や歴史から考えて浮き彫りになる人間の「矛盾」ということも語られたと思います。

 発言された方の意見をただ聞くだけではなく、更に質問を通して、発言の意図をクリアにされようとする参加者もおられました。参加された皆さんのご協力によって、とても良い時間になったと思います。ご参加ありがとうございました。