てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

名古屋より出張哲学対話 in Tetugakuya 感想

【日時】10月28日(土)19時ー21時
【場所】アンティークと雑貨の店 Tetugakuya(香川県仲多度郡多度津町東浜2−22)
【テーマ】哲学カフェ「哲学カフェとは」
【主催者】Tetugakuya
ファシリテーター】ヤマガタ ハジメ
【参加費】1,000円
 
 
対話のみのスタイルでは、初めての哲学カフェとなりました。
参加者は10名程度。
 
 
前半で、今日のファシリテーターであるヤマガタさんに「哲学カフェとは何か」と題して、入門編の案内をしていただきました。
 全国に、本当に様々なスタイルの哲学カフェがあることがわかりました。
お酒を飲みながら開催するスタイル、子供だけの哲学カフェ、シニア限定カフェ、選挙や政治などを積極的に議題にする社会派の討論が多い哲学カフェ、発達障害の人々の哲学カフェ、科学技術とその使用に関する倫理性について市民が考えるカフェ、読書会形式、ゲーム形式。
 それぞれがみんなユニークで、その方法も千差万別。主催者に色々なタイプの人たちがいることがわかりました。

 後半は、時間が限られる中ではありましたが、哲学カフェを実践しました。
テーマはその場で決めるということになりました。「正しい戦争はあるか」をテーマに討論することになりました。
 
 実は、このテーマは機会があればやろうと店主が準備していたものでした。
「戦争」についてテーマに掲げると、「随分と攻めたね!」という反応がとても多かったのですが、これはいかに「戦争」を対話のテーマにすることがはばかられているか、という現実の裏返しのようにも思えました。「語らず・あえて考えず」という暗黙の空気があるようにも感じましたが、哲学カフェだからこそ議題にすることができると思いました。
 戦争をテーマにする時に、その悲惨さを語り、聞いて涙を流すということで、本当に「考える」ということのために十分なのだろうか。
 「戦争=悪」だと口にすることは簡単ですが、私たちは本当に何を知っているのだろうか。ひょっとすると対話の中で、私たちは戦争を良く思っていない割には「知らないこと・考えてもみなかったこと・気がつかなかった視点」があるのではないか。重要な問題だからこそ、「考えてみる」というところに立つ機会を持ってみたいと思いました。
 
 ここでは、「正義」というキーワードをどう捉えるのか、という問題が浮上して来たように思います。
 まず一つは、今回の問いの中に出てくる「正しい」という言葉ですが、「私的正義」としてなのか「普遍的な正義」としての「正しさ」なのか、これにより議論の内容が変わってくるのではないかという指摘があったように思います。
 
 また、戦争について語る時に、身近な例として、集団のいじめや個人同士の人間関係なども挙げられましたが、「国家間の戦争」と「私的レヴェルの集団や個人の問題」を同一に語ることができるのか。また、できないとしたら、それはなぜなのか、という問いかけがありました。
 これに対し、個人や集団同士の争いには、国の法律や裁判があり、正義の判断が行われるが、国家間にはそのようなものが存在しないために、両者を同一に語ることはできないのではないか、という意見がありました。
 また、ここで、確かに個人や集団の喧嘩には、裁判があるが、裁判の判決があるからといって、どちらか一方が正しいということが果たして本当に言えるのだろうか、という意見もありました。
 
 このテーマで「正しさ」を語る時に、結果論としての「正しさ」なのか、それとも今から起こる物事の行為や選択の「正しさ」を考えるのか、どちらなのかという指摘もありました。
 
 議論を進めるうちに、いくつか混同すべきではないかもしれない問題が、一緒に混ざって語られがちであることにも気づかされました。
 
 そしてもちろん、テーマの設定そのものに対する批判や疑問も多くありました。
 戦争に正しいも悪いも無いのではないかという意見もあります。
 そもそも戦争など起こらない可能性もあるので、戦争が起こるという前提で議論するのはどうなのか、という意見もありました。
 
 戦争がなぜ起こるのか、という問題にも話題が発展したように思いました。特定の権力者が民衆を扇動することによって起こるのか、あるいはいつの間にかそうなるのか、国家間の緊張関係により民衆の心理状態の変化が引き金になるのか。

 最後に、本当に戦争を経験し地獄のような悲惨さの中を生きた人々と比較すると、ここで行われている「正しい戦争はあるか」という対話そのものが娯楽のようなもので、このようなことを話して何になるのか、という意見もありました。
 参加者の一人一人にはそれぞれにバックグランドがあり、経験があります。本当に人の生き死に関わった人や、自らもまた生き死にの問題に投げ込まれ直面して来た人もいると思います。そこには、語ることすらできないものがあると感じている人もいると思います。「語る」ということがすでに軽々しいと感じ、深い腹立ちや悲しみを感じる人もいると思います。そのような人々にとっては、哲学など知的遊戯だと感じるかもしれません。私はそのような想いも、人々のうちにある1つのリアルな本音だと感じました。
 
 ここでテーブルを囲みテーマを掲げて対話をしている私たちは、確かに実際に戦地にいるわけではありません。テーブルを囲んで話しているだけです。それは紛れもない真実です。
 では、このことに意味は無いのかというと、意味があってほしいと思っています。「意味があってほしい」というのは、そこに参加する参加者の一人一人によるものだからです。決して主催者やファシリテーターが提供できるものではありません。
 
 この場は、どんな団体や組織とも利害関係がなく、参加者同士の立場に上下関係もありません。共に、問うたり考えたり知ろうとする者として対等な関係です。だからこそ、忌憚なく問い考えることができます。
 対話を行い、結論を出すことよりも、答えを見つけようとする過程が大切で、この過程の中での気づきや発見の積み重ねが、その人を知的に謙虚にしてゆき、また自分の力で思考するための力を育て、意見の違う他者と対話する柔軟さも養われて行く機会になると思います。まさに、この中に平和を構築するための要素があると思います。
 しかし、それは誰かが誰かに植え付けられるものではありません。 哲学は教えることはできず、自らが主体的に哲学するほかないのです。そしてそれは簡単ではなく、実に時間のかかることだと思います。 
 
 自分こそは、よく考えられる人間で、よく人の話を聞ける人間だと思っていても、対話の中で常に試され、また自分の思い込みも打ち砕かれる機会もあるでしょう。あるいは、自信満々に意見しても、反対意見の方が有力な時もあるでしょう。それが哲学カフェだと思います。
 
 今回は、実践で対話の時間が短かったので、残念でしたが、興味や関心を持って参加される皆さんお一人お一人によって、今後もまた、より良い哲学カフェになると良いなと思いました。