てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

第8回 読書会『愛するということ』感想

第8回目の読書会

少人数ながら、大変充実した議論ができました。
 
 

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この回のレポートは、愛知県より参加してくださったYさんのレポートを引用させていただきます。
 
第8回テツドク 『愛するということ 新訳版』エーリッヒ・フロム著
【日時】2017年6月10日(土)19~21時
【場所】アンティークと雑貨の店 Tetugakuya(香川県仲多度郡多度津町東浜2−22)
【テーマ】『愛するということ』エーリッヒ・フロム著
【主催者】Tetugakuya
【参加費】500円(ワンドリンクがつきます)
 
【テツドクの概要】
 前半はテキストの149ページの5行目から、151ページの10行目まで一段落ずつ参加者が輪読し、その後疑問などを出し合って話合った。
 最初に、フロムは「偽りの愛」の一種とする「偶像崇拝的な愛」について話合った。偽りの愛があるなら、本当の愛というのがある。それは何か?フロムのいう「自分の能力の生産的な使用」とは何か?「自分の能力から疎外」とか、「恋人のなかに自分自身を見いだすどころか、自分を見失う」とはどういうことか?「二人精神病(フォリー・ア・ドゥ―)」とは何か?と。次々に建てられる問いについて、それぞれの意見や解釈や感想を述べあうだけでなく、『愛するということ』の初めの方に書かれたフロムの定義を確認したり、それまでに書かれている言葉から整合性がある解釈を考えたり、原著The Art of Lovingの英文の英語表現で翻訳の意味を吟味したりと、調べながら、読みを深めていった。
 次に関心はフロムが取り上げる「偽りの愛」としての「センチメンタルな愛」へと進む。一つは雑誌や映画のラブストーリーや、ラブソング、に感情移入する身代わりの愛であり、二つは過去の愛の思い出に涙したり将来の愛を想って感動するなど「時間的抽象化する」愛である。
 後半は151ページ11行目から154ページの14行目を同じように輪読しました。フロムが「投射のメカニズム」という心理学的視点による神経症的な愛が書かれているが、参加者の関心はほとんどひかずに、問いがでたのは「愛があれば対立は絶対に起こらない、という幻想」についてのところだった。
 フロムは「ほとんどの人の『対立』はもともと解決などありえないような些細な表面的なことがらで、仲たがいしているにすぎない」として、「二人の人間あいだに起きる真の対立、・・・略・・・内的現実の奥底で体験されるような対立は、けっして破壊的ではない。そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知と能力を得る」という。また「二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか、人間の現実はない。」という。
 難解な言葉ではないけれど、「表面的な対立」「真の対立」とは何か、「内的現実の奥底で体験されるような対立」「中心における経験」とは何か、なぜ「かならずや解決」するのか、それぞれの解釈を出し合い、その根拠となる各自の経験を話合ったり、フロムがそれまでどのようにしてその言葉を使用してきたのか、話合った。
 
<テツドクの感想>
 参加者どうしで哲学書思想書を自分たちの知識、経験、視点で読み進める読書会です。大学のゼミや授業の読書会によく似ていますが、哲学を学び続けたいという気持ちがある読書会です。私も学生時代を思い出しながら楽しい時間を過ごしました。比較的有名な本です。私がかつて読んだ旧訳版と今回の新訳版を読み比べると、collabolationの翻訳語の今昔を比較してそれなりに人口に膾炙したのかもしれませんが、翻訳語の変化を実感できて面白かった。読書会も一つの対話ですので、いろいろな読み方を知ることができて、読み方を深めることができます。専門家がいると、ついつい正解を知ろうと頼ってしまい、主体的な読み方をしなくなりがちです。読書と哲学対話が一度にできるし、哲学好きな人と交流できる。こういう哲学系図書の読書会が地元であればいいなと思いました。