てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

第8回 読書会『中動態の世界』8章 感想

中動態の世界8章

 

11名の皆様のご参加ありがとうございます。
 
8章は、中動態の根幹とも言えるスピノザの議論について論じられていた章だったと思います。
 
章の前半では、スピノザが文法研究そのものに対して強い関心を抱いていたことがわかりました。そして、「行為する者と行為を受ける者が一つの同じ人物である場合がある」として、動詞の六つ目の基本のカテゴリーとは別に七つ目のカテゴリーに注目していました。
 この七つ目のカテゴリーこそ、スピノザ哲学においてはお馴染みの概念「内在原因」と深く結びついています。
 
 スピノザは神なる実体とはこの宇宙あるいは自然そのものに他ならず、そうした実体があるのだが、そうした実体が様々な仕方で「変状」したものとして万物は存在していると考えた。すなわち、あらゆるものは、神の一部であり、また神の内にある、と。したがって、神は万物の原因という意味では作用を及ぼすわけだが、その作用は神の内に留まる。神は作用するが、その作用は神以外の何ものにも届かない。それは確かに「動詞七つめの形態」でこそ表現される事態である。(pp.236-237)
 
 
スピノザは、「中動態」という単語を用いたことはないが、彼の思想の中に、中動態を見て取ることができると國分さんは主張しています。
 
 
 

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中動態 スピノザ1

 


そしてこの「内在原因」というスピノザ哲学から、神の外には何もないので、神に影響や刺激を与えるものはないことはわかります。しかし、そのなかにある様態の一つである私たちは、違います。様態同士が互いに影響を受けたり与えたりしながら、影響い、変状してゆくことが言われています。

 

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中動態 スピノザ2

 

 

さて、ここで重要なのは、因果関係の中にある私たちと、そして、そのなかにあってもなお、語ることのできる「自由」についてだと思われます。
 
 
 生じている中動態的・内的な過程は、個物それぞれ違うであろうし、人であれば、人それぞれ違うものになる。同じ刺激を与えられても、人によって様々な反応をするように。そこに、その個物の「本質essentia」があると考えられています。
 そのように考えてみると、私たちは存在する限り、外部から様々な刺激や影響を受けざるを得ないけれど、私たち一人一人が「個としての本質」を持っていて、影響を自らに受けながらも、私たちが持つ「個としての本質」が私自身がどう変状するかを司ることができるのだとしたら、そこから人間の「自由」を定義することができるとスピノザ、そして國分さんは考えているようです。
 
 

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スピノザにおける自由

 

 

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スピノザにおける強制

 

 スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、我々は自由であるのだ。ならば自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。(p.262, l.6)
 
 何度も自由意志あるいは、意志の存在について否定的な見解を述べてきた。だが、自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることと全く矛盾しない。自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道を塞いでしまう。その信仰は、ありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(ref.263)
 
 
 

 

哲学書には、馴染みにくい単語や専門用語もたくさんあって、戸惑いを感じられることも多いと思います。また、8章では神についての概念が出てまいりましたが、実は西洋哲学の中では、神について論じられることはよくあります。
 
 参加された皆さんの中には、どうして哲学が「神」なんて言い出しちゃうんだろうと、混乱された方もいらっしゃったかもしれません。
 やはり「神」というキーワードが皆さんの中で引っかかってしまったように思われました。「神」なんて持ち出さなくても・・・という声も聞かれました。「神」の部分は要らないのではないか?という反応もあったように思います。
 
 しかし、「そもそもなぜこの世界はあるのか」など、存在をめぐる問いの中で、おそらく根本原因として「神」という概念は、西洋哲学のなかで非常に活発に論理的に議論されて来た歴史があるだろうと思います。
 現在の私たちがイメージする信仰の対象としての「神」としてだけではなく、そこでは、存在をめぐる哲学的な問いの中にあったことでしょう。
 そうした緻密の議論は「神」から形を変えて、「科学」や「物理」など様々な分野にも引き継がれてくるようなものを担って来たと思います。しかし、依然として、論理的に矛盾がなければ「神」の概念は、場合により有効であるようにも思います。
 
 一つ不可解なキーワードに引っかかってしまうと、どうしてもそこから離れられそうにないのですが、読書会のポイントとしては、この章の中のどこに國分さんの主要な主張があるかを一緒に見つけて見ましょう。そして、それが見つかったら、次に、その根拠が書かれているかどうかを探して見ましょう!