てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

「優しさって何?」

 

「優しさって何?」レポート

 

2018/12/04

対話と思索のお茶会

「優しさって何」

 

 

集ってくださった11人の皆さんと「優しさ」をテーマに哲学対話を行いました。

 

優しさは「反射的行動」?

 優しさって言ってもほとんどが利害関係を超えられないと思う。でも、反射的に動いてしまうというのは本当の優しさなんじゃないかな。目の前で倒れている人を助けるとき、利害関係なんて頭にないから。

 

本能の中に優しさがある?

 母猫が子猫を舐めるように、子猫が怪我をしたらそこを母猫が舐めるように、動物的な本能の中に優しさが備わっていると思う。だけど、人間には社会性があるから、利害関係の中でうまく優しさが発揮できないんじゃないかな?

 


優しさは思考以前のもの?人間に元々備わっている?

 優しさは元々あるのに、人間社会の生活の中で曇らされて汚されていくから、素直に出せなくなっていくんじゃないかな。例えば神道では、そのためにお祓いをする。払うというのは、積もり積もった塵を払って、本来あるものが出てくるようにするために。優しさは元々備わっているものだから、考えるものでもなく、自ずと出てくるものだと思う。いじめ問題だって、本当は助けたいのに、助けたら自分もやられるのではないか、ということを考えてしまって、本来持っている優しさが発揮できなくなっているとも考えられるよね。

 

 こうした考えの流れの中で、「じゃあ、やっぱり利害関係があると思う」という声も出てきました。本当は自分は利害関係のない優しさがあったらいいなと思うけど。二人以上の人間がいれば社会が生まれる。種の保存が本能的にあるから、人が社会で生きて行こうとするときに、利害関係は越えられないんじゃないかな。

 

 

優しさは人間にもともと備わってない?人間は与えるのは苦手?

 人間は生まれた瞬間から親から愛を与えられて育つ。優しさを受ける側であり続けることが人間の成長の過程の中にあるから、育つ過程で無償の愛を受けとめてしまっている。それは私たちにずっとつきまとっているんじゃないかな。だから、逆に自分から相手に愛を「与える」ということは苦手なんじゃないかな? そうでなければ、どうして戦争とか人を殺すとかが続いていくんだろう。だから「与える愛」は学習されていかなければならないのだと思う。学習するために「与える愛」としての宗教が発生してきて、そこから人間は学ぶ必要性があったんじゃないかな? 本来的には、奪うだけ(受け取るだけ)の育ち方をしている。そして、それではダメだということを人間は学習していくのだと思う。

 

 

優しさと親の影響?

 育児を放棄して居る親がたくさん居る。生まれながらの優しさはなくて、親からもらう優しさの影響は大きいと思う。親から貰えなかった人は、第三者から優しさを受けて、学んで行く人もいるんじゃないかな。孤児や施設で育った人の中にも優しい人は沢山いるから。親に限らず、生まれてきてから、優しくされてきた経験の蓄積で、人間はどんどん優しくなっていくのかなと思う。

 

利害関係を超えた優しさはある?

 自分のいのちを守るため、自分という存在を維持するために、自分を守っていかなければならない。だけど、それを越えたところにある人もいると思う。自分は死んでも人を救ったり助けたり愛したりする人も歴史の中にはいるし、いたと思う。もちろんそれを否定する言い方もあるかもしれないけど。だから必ずしも、利害関係を超えた優しさは無いとは言い難いんじゃないかな。

 

何が私たちを利害関係を超えた優しい人間にしてくれるんだろう?

 私たちは、日々、誰かの優しさに触れている可能性がありますよね。それでも、実際は多分、利害関係を超えた優しさをもつ人間になれている訳ではないですよね。相手が良かれと思ってしてくれた優しさを気づかずにいることもあるだろうし、優しさだと受け止められないときもあると思う。じゃあ、どんな「優しさ」に触れたとき、人は変化させられるのだろう。

 

 これに対し、興味深いことに、利害関係を少し超えた優しさに出会った時というご意見が寄せられました。

 

自分がどうありたいのか?

 自分の優しさをどうしたいのか、どうありたいのか、という考え方を持っているのも大事だと思う。自分以外のところで、優しさとか利害について議論するんじゃなくて、自分の優しさはどうありたいのか、どうしたいのかを考えて行くことも大事だと思う。

 

 

利害関係は「超える・超えない」ではない?

 例えば、会社の社長同士だとして、お互いが利益になるようなことを一緒に考えようとすることもあると思う。自分の利だけを取ろうとするのではなく、一緒になって利になることを考えていこうよ、というのも優しさかもしれない。そうすると単純に利害関係を超えるとか超えないとかという話では言えないものもある。

 

 

自分への優しさと相手への優しさは同時に成立する?

 自分のいのちを守ろうとしたり、自分の健康を気遣うことは利己的とは言わないと思う。自分も一人の人間として、自分で自分に対しても優しくしながら、他者のことも想うということは、相反するわけではないんじゃないかな。両方同時に持てる想いなのではないかなと思う。

 

 

より高次の優しさ?

 相手がその優しさを喜んでくれようがくれなかろうが、「優しくあろうとする」ということができる方がより高次な感じがする。相手が自分の優しさを受け取って「優しい人」だと思ってくれるから、さらに優しさが発揮できるということがあるとしても、それがなくても、嫌われてもなおかつ「優しくある」ということが必要な場合もあるんじゃないかな。

 相手の受け止め方はその人にとっての「優しさ」の観念であって、自分にとっての「優しさ」の観念はまた別にある。一致するときもあるし違うときもある。

 

 いつかわかってくれるはずだ、というのもない。お互い人間だから、最後までわかってくれないこともあると思う。すごく優しいことをして、人生を人のために生きた人が、過去にいっぱいいたと思う。そのことを誰にも告げられず、誰にも知られることもなく、優しさを受けた本人も気がつくこともなく死んでいった名もなき人たちも沢山いたんじゃないかな。

 

 

優しさと時間軸?

 優しさには共感力や想像力が基礎として関わってるんじゃないかな。だから、後天的に磨くこともできる。他者に共感してもらった分、人に優しくすることできる。人にきちんと優しいと伝わる成功事例と、優しさ伝達失敗事例もあると思う。

 時間軸もあるんじゃないかな、その場で伝わらなくても、その時は、失敗事例に思われることもあるけど、後で成功事例に変わることもあるかもしれない。一概にその場の反応だけで「優しさ」の判断はできないんじゃないかな。

 


行動力と優しさ?

 「行動力があることがある=優しい」ではないと思う。何もしなかったから、優しくないというわけでもない。目の前に倒れた人を見てオロオロしてしまい、どうすることもできなかった人が、実際に行動した人よりも優しくなかったのかというとそうでもないのではないか。

 

これについて、別の方からもフォローが入りました。

知識のない人が倒れた人を不用意に起こすと、かえって容体を悪化させるかもしれないよね。

 

 

優しさを比べない?

 「優しさ」を他者同士で、あるいは自分と他者とを比較しなくても良いんじゃないかな。人それぞれの「優しさ」の精一杯がある。第三者が見たときには、かなり差があるかもしれない。でもそれを比較して、あれこれ言うこと自体がいいのかどうか・・・。その人は、その人なりのめいっぱいの優しさを発揮したんじゃないかな?

 

 

99対1の構図

この話題でも複数の意見が出てきました。

 

 100人の中で99人対一人の状態になった時、その一人のために立ち向かうのが優しさかなと思う? 心の中で助けたい気持ちはあるけれど、行動はできないということは多いと思う。

だから、利害関係があるのがほとんどじゃないかなとも思う。なかなか利害関係はずっと付きまとってくると思う。

 

 大勢の中でいじめられている人の存在に気づいても、どうするかの前段階で、自分がどうありたいか、というのが大切なんじゃないのかな?

 

 99人を敵に回して、どう助けられるんだろう?助けられる人には、何らかの知恵や力などがないといけない。状況を悪くしないために、何もしないという選択をすることもありうる。だから、それは優しいとか優しくないというよりも、技術(知識や力)の問題じゃないかな?

 

 

相手がどう受け取るか?

 あの時の行動は正しかったのかずっと気になっているという方もいました。過去の自分の行為に対して相手がどう受け取ったのかを今でもずっと心のどこかで気にしている、というご自身の体験を踏まえた意見もありました。

 

 

優しさが相手を惨めにすることがある?

 優しさを受けることで、自分にとって惨めな気持ちになることもありますよね。でも、後から感謝する気持ちになったかもしれないし、そうでもないかもしれないですよね。

 

 

相手がどう思ったか気になる?

 相手が喜んだかどうか感謝してくれているかどうか知りたいですか、という質問に対して、「事例にもよるけれど知りたい」という考えが多いようでした。

 

 結果に興味がなかったらそもそも行動に移さないな、という意見もありました。

 

 

受け取られ方は結局分からない?

 優しかったかどうかなんて結果をいちいち考える必要あるのかな? 相手が優しくあったかどうかなんて分からないということが、普通のことなんじゃないかな。逆に言うと、「自分が優しくした」ことに自信を持つしかない、と言う考え方に立つしかないんじゃないかなぁ?

 

 

私たちは優しさを求めてる?

 「自分には優しくしてほしい」ということを私たちは求めてるんだとおもう。 実際は全然そうではなくて成り立たないことがいっぱいあるんだけど。

 「今日も優しさを求めてここに来ました」という発言に参加者からは笑みがこぼれました。

 

 

利害関係は無くならない?

 私たちは、生きている限り利害関係から離れられないと思う。そうだとしても「優しい」ということは考えられるんじゃないかな。

 

本当の優しさとは?

 「自分が優しいことをした」と相手に思ってもらいたい、というのは本当の優しさなのかな?

 

 

優しさと行為の関係性?

 行為する・しないは、最終的な選択だと思う。行為を選択する前に気持ちがあって、優しい気持ちで考えた上で、行為すべきだとか、すべきでないとか、できないとか・・・。

 言動はその人の答えだと思う。「結果」と捉えたときには、それが成功したのかどうかは知りたい。もちろん悪意を元に選択されて出てくる行動もあると思う。優しさは行為の手前にあるのかな。

 優しさの前に相手のことを想像すると言うことがあると思う。もちろん悪意についても言えるけれど。想像するから優しさが芽生えるんだと思う。優しさにおいて、想像の範囲や度合いも人によって違うと思うけれど、それが比較的多く広い人が優しい人なのかなという気がする。

 

 

悔いるとは一体なんだろう?

 仮に、必ずしも「行為=優しさ」じゃないとしたら「悔いる」とはどういうことだろう? 親や肉親を看取ったとき、もっと優しくしておきたかったと悔いる人がいる。その人の胸の内には優しさはたくさんあったけど、行為は十分にできなかったということがあると思う。そこで悔いるという思いが芽生えるということは一体どういうことなんだろう?

 

それに対し次のような意見もありました。

 そういう意味ではやっぱり行為した方がいいと思う。行為しない選択もあるけど。優しくしたい相手がいるならば、行為した方がいい。

 

 

優しさの対象について?

 「興味ない人や嫌いな人には別に優しくしたくない」という正直な意見に皆さん笑みがこぼれました。

 そもそも嫌いな相手に優しくしたいという気持ちが起こってこないよね、という別の方からのフォローもありました。

 

 

 想像と存在について?

 無関心な相手は、もう自分の世界に存在してないようなものじゃないかな。だけど何かのきっかけで登場人物として今まで自分の世界にいなかった相手が、自分の世界に現れてきたら、想像や共感の対象になり得ると思う。想う矛先ができるということかな。想像できなければ存在していなってことだと想う。想像できた時点で存在している。

 

 

優しさは受容すること?

 「優しくすること」と「優しさ」は、分けて考えた方がいいと思う。私は受容すること、受け入れることが優しさだと思う。受容するとは、相手の立場に立つということ、相手の気持ちを受け止めることだと思う。

 

 

受容できる人が利用される?

 受け入れるという優しさを持っている人が潰れていく現状もあると思う、という意見もありました。

 

 優しくされたいという人や、その優しさを利用する人もいると思う。まったく悪意無くその人が使われてしまうということがあると思う。どんどん仕事が回ってくる。受け入れ切れなくなって潰れてしまう。

 

 この話の展開に「よくわかる!!」という、経験者の一声も。

 

 

共感と行為は別物?

 共感はするけど、それによって行為を「するか・しないか」は別の話だと思う。でも共感の思いが強くなると、場合によったら手伝うかもしれない。手伝ってもらった側は楽になる。それで、「悪いんだけどお願い」と言う人が一人増え二人増えということはあり得る。

 

このような議論の流れに対して、「優しさが持ってる欠陥とも言えるかもしれないなぁ」という一言も。

 

そして次のような意見もありました。
「受容」と「共感」と「行為」は、それぞれ分かれていると思う。テクニックもあると思う。

それでも、優しさを考えたときに一番最初にくるのは「受容」かなとも思う。

 

まとめ

今回は、とても濃厚な議論となりレポートをまとめることがとても難しかったです。「優しさ」について真剣に考え探求していく過程のなかで、皆さんのなかから現れてきた様々な意見がどれも本質に迫ってゆき、深く濃いものにしてくださったと思います。ご発言された方ご自身にとっては、何気ない言葉だったかもしれないものが、それら全てが「優しさ」の輪郭を少しづつ多角的に見えるようにしていったと思います。ご参加ありがとうございました。