てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

第7回 読書会『中動態の世界』7章 感想

第7章

1章から始まった回、とうとう7章まで進んでまいりました。

10月27日全9名での読書会となりました。

7章では、中動態の観点から西洋哲学史を見直してみる(ref.199)ということがテーマとしてあったと思います。

前半では、ハイデッガーの「意志」についての彼の態度について論述されていました。

 

そこで意志概念についてのおさらいや見直しも、改めて行いました。

 

お配りした「意志」についてのまとめプリント

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「中動態」意志語録

 

 余計わけが分からなくなる可能性も否めなかったのですが、「転回前ハイデッガー」と「転回後ハイデッガー」と「後期ハイデッガー」についての補助プリントを用意しました。

 お配りしたハイデッガーに関する補助プリントは全て、『ハイデッガーの思想』木田元岩波新書1993年のものです。

 横道に逸れる可能性もありましたが、それでも、せっかく読書会に集っていただいた皆さんと、ハイデッガーのちょっとしたエッセンスをシェアできると、漠然とでも、いつかどこかで何かに繋がるかもしれません。点と点が線になる瞬間があるかもしれません。

 

 お配りしたハイデッガーについての補助プリント複数のうち、次の部分だけを改めて引用します。

以下の内容にすでに、「転回」を示唆するものが含まれていると思います。

下線部は、筆者によります。

 

 

ハイデッガーが人間のことを<現存在>という妙な言葉で呼ぶのも、人間こそ、<存在>という視点の設定がおこなわれるその<現場>だからにほかならない。 してみれば、<存在了解><存在企投>とは、現存在にとっては、確かに自分のうちで起こった出来事には違いないが、自分がおこなったわけではなく、自分を超えた何者かの力で生起したとしか思われず、いわば畏敬の念、驚きの思いをいだかずにはいられない出来事なのである。(p.88)

 

 

ところで、<存在了解>なり<存在企投>が、今述べたように、現存在のうちで起こるが、現存在が意識的におこなう働きではないのだとすれば、<了解>とか<企投>といういかにも能動的作用を思わせる言い方は、不適切ではなかろうか。いかにもその通りであって、のちに見るように、これが『存在と時間』の躓きの石になる。やがて、ハイデッガーは、この事態を<存在の生起>とか、ただ<出来事>などと呼ぶようになるが、それはもう少しあとの話である。(P.89)

 

 

話を『中動態の世界』に戻しまして後期のハイデッガーは、意志批判の末「放下(Gelassenheit)」という概念を用いるようになりました。(ref.207)

 

 

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ハイデッガー 放下

 國分さんは、ハイデッガーの謎めいた言い回しを中動態の観点から解釈可能だと述べています。

 

意志が能動と受動の対立によってもたらされる効果であるとすれば、意志の外部に至るという課題は、能動と受動に支配された言語の外に出ることを要請するであろう。この要請にハイデッガーは極めて難解で秘教的、場合によっては神秘的とも思える言葉遣いを持って答えた。(p.213)

 

 

読書会対話の中で・・・・

 
「こういうのが放下じゃないかな?」という提案があっても、「いやそれはもう受動と能動に振り分けられてますよ」というやりとりがありました。
 
議論のなかでは、「中動態」を考えてみるということが如何に私たちにとって困難であるかが、再確認される場面もありました。私たちの言語と思考の奥底ですでに「受動と能動」で物事を捉えてしまうからです。
 
それから、「ケアの観点からこの哲学書が出されたということについてどう考えるべきか」再び読書会のなかで触れられました。
 
子供達と接しているなかで実感された出来事を例として、中動態を捉えようとされる方もいました。
 
中動態(放下)について語り合いながら、印象的であった発言の一つに「生まれるということは、自分たちが希望して能動的に生まれてきたわけではなく、ある日産み落とされたということであるから・・・・」というものがありました。
産み落とされたと言うと、英語では、<be born>ですから、産み落とされてしまったという受動態になっていますが、受動態と能動態が対立させられる以前の、中動態と能動態のパースペクティブでは、「生まれる」は、中動態とされています。(ref.087) 改めて、抑圧された中動態が様々な形態へ派生して行ったこと、受動態は後から生じた態であることを思い起こさねばなりません。
 
今の私たちは、意志ということを抜きに何かを考えることは難しくなっているようです。
意志の概念を見つめれば見つめるほど、意志は本当に存在するのか怪しくなってきます。
しかし、間違いなく意志があるように私たちには感じられるがために、意志は効果として残ります。
 
中動と能動の対立の観点こそ真であると國分さんは考えているようです。
しかし、「能動と受動」の観点を批判的に問題点を指摘するけれども、完全否定はしていないわけです。
 
能動と受動の対立がある現在では、意志が際立ち、行為や出来事の帰属先を求めます。
意志は効果として残るということは、「能動と受動」のパースペクティブそれ自体も「効果として作用する意志」を土台として、現実的には、ある意味効果的?に作用している?
 
私たちは、意志があるとして考え、出来事や行為の帰属先を求めざるを得ないことが多々あります。責任を求める時などにそれは実際に生じますし、刑法は現実的に必要なものだからです。「能動と受動」のパースペクティブが、いかに有り得ない「意志」という概念の上に立っていたとしてもです。
 
 
「能動と受動の対立」と「中動と能動」の観点は、同時に、並立可能なのではないかとも考えられました。
 
いじめを見て見ぬ振りをすることは、中動態(放下)か?との問いかけや発言がありました。
 
いじめを見て見ぬ振りをした人は、自らの「意志」でいじめを止めることができたはずなのに、保身のためにその行為を選択しなかったのだ、と言うならば、それは能動的だとも言えるかもしれません。見て見ぬ振りをした人も責任を問われるでしょう。  それと同時に、いじめを見て見ぬ振りをしたのは、何かその人を保身に走らせるようなトラウマ的な経験があったのかもしれず、本当は見て見ぬ振りをしたくない思いを抱えているかもしれない。本人からすれば、そうせざるを得ない何かがあるのかもしれない。そのように考えるならば、中動態の観点でも語れるかもしれません。
 
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「価値があるってどういうこと?」

 

 「価値があるってどういうこと?」 

 

具体的に何の価値であるのか、具体的に指示せず「価値」そのものをテーマにすることで、どのような対話が生まれたのか、レポートとしてご紹介します。

 

 

アートや芸術に関する価値、個人的な価値、人と人をつなぐ社会の共通項としての価値、相対的な価値、絶対的な価値、経済、宗教、様々なことが「価値」に関連しているということが、皆さんの言葉を通して語られました。

 

個人の内的な価値と社会的な価値?

 

参加者からは、他者からの評価によらない、自分自身の充足や満足としての「価値」についての発言がありました。

一方で、自分の中だけで終われないものもあり、社会の中でやりとりするための「共通」できるものとして、お金であったりする「価値」についても語られました。

 

 

資本主義的な価値?

 

そしてこんな面白い意見もありました。

 

今、私たちは価値の話をしているのだけれど、それは「資本主義的な価値」というところでしか、語れていないのではないだろうか?

今、対話に出てきているのは、精神的なものも混じってはいるけれども、ほとんど物質としての価値じゃないかな。資本主義は、どんどん成長して行くということが前提にあって、モノも制度もどんどん変化して行って、価値がどんどん変わって行くんじゃないかな。すると価値は相対的だよね。

 

でも、私たち人間は、何かそうじゃない形での「価値」を持っているんじゃないかな?

それを「価値」という言葉で表現するのが合っているのかどうかわからないけど。それをどう表現できるのだろう?

 

 

価値は相対的?絶対的なものはある?

 

相対的な価値に対して絶対的な価値ってあるのかな?

例えば、絶対的な価値という意味での「人間の命」というのはどう?という提案もありました。

また別の参加者からは、絶対的な価値といえば、かつては、やっぱり宗教における神の存在なのかな?という言葉も。
お金で測れないものは、今でも意外と「神」って言葉を使ってるんじゃないかな?「神ってる」とか「神対応」とか。

 

もちろん「価値というのは、相対的だと思うな」という意見も複数ありました。

 

個人の価値観は変わって行く?

 

次のような意見も印象的でした。

価値は、どうしても相対的なのではないかと思うのだけれど、自分自身の中でも価値観は変わって行くんじゃないだろうか。過去の経験にしろ、その成長の過程で積み上げてきたものによって一人の人間の中でも変化して行くんじゃないかな。

 

自由だから、今日のテーマは成立する?

テーマそのものに関わるこんな指摘もありました。

資本主義には、「自由」が加わっているような気がする。だから多種多様な価値観があって、「価値があるってどういうこと」という今日のようなテーマが成立できるんじゃないかな。

 

 

価値観は相対的だから不安?

 

この多種多様な価値観は相対的なものかもしれない。でも、相対的であるからこその不安もあって、だから人は、どこかで拠り所として絶対的な価値を求めるのかもしれない。

 

次のような意見もありました。

「絶対的な価値は私だ!!と思っています。外に絶対的なものを求めるのは危険な気がして。でも価値観は育てて行くものだと思います。」

 

 

まとめ

このように11名の参加者の皆さんのそれぞれの言葉から語られる内容が、時に雑談となって横道に逸れたり、時に微笑ましい笑いが起きたりしながらも、「価値」の核心に迫るものになっていったと思います。少し何かが形になってきたように思えると、新しくどんどん疑問も湧いてくる、そんな回でした。
全ての方のどのご意見も「価値」について考えるうえで、とても大切なものでした。

皆様のご参加ありがとうございました。

 

 

 

 

第6回 読書会『中動態の世界』6章 感想

 

9月15日哲学読書会『中動態の世界 意思と責任の考古学』6章を読む

 

 

哲学読書会『中動態の世界 意思と責任の考古学』6章を読む回にご参加くださった7名の皆さま、ありがとうございます。

6章をより深く解釈できるよう努めつつ、6章の言語の歴史を追いながら、参加者の皆さんの口を介して現れて来る様々な意見や表現がとても興味深く楽しい回でした。

 

 

  参加者の間で、生じた対話の中で非常に面白かったのは、「分離」という表現でした。それは6章本文に中にはなかった言葉でしたが、今回の対話の時間の中で始終HOTなワードとして交わされました。

 

 

●赤ちゃんに自我が生まれるということは、1人称と2人称を生じさせる。そこで、自分と他者との分離が行われるのではないか。行為者が誰なのかを特定して行く言語というのは、ある意味では、人と人(あるいは何かの概念を細かく)分離して行くということなのではないか。

 

●分離は、ある種の孤独さを生む。

 

●中動態のうちでは、自然と人間との一体感があったけれども、そこから分離があったのではないか。

 

●中動態を説明する時に、「自然の勢い」という表現のなされ方がとても日本人らしく情緒を感じます。決してバンヴェニストからは出てこなかった表現ではないだろうか。

 

●中動態について考える上で、自然(世界?)のなかに在る私たちという感覚が連想され、そこから、日本人の宗教観(アニミズム)について話が及びました。ヨーロッパの方は歴史的に民族の移動や争いや交わりが激しく危機的な状況もあり、活発な議論と何かを体系立てて行くために、言語はより複雑化されざるを得ず、それは「分離」を極めさせたのではないか。

 

●猫は、能動と中動のパースペクティブで世界を見ているのだろうか?トカゲのみる世界と猫の見る世界は違うと思われる。

 

●猫の話もいいけれど・・・。この社会には様々な問題が溢れている。抽象的な議論もいいけれど、この時間に、「中動態」をもっと現代の社会問題に繋げて考える対話が生じないだろうか・・・。

 

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第5回 読書会『中動態の世界』5章 感想

 読書会にご参加くださった皆さま、また、レポートを担当してくださった方、ありがとうございます。

 

 5章では、「意志」の概念について、たいへんすぐれた定義(p137)づけを行なっている例として、アーレントが紹介されました。

 アーレントの意志の概念が正しいものと仮定すると、逆説的に、意志の存在を主張することが難しいのではないかと、国分さんの指摘がなされています。 そういう意味では、アーレントの意志の定義を正しいものとして受け入れることで、むしろ本テキストの主題でもある、意志の存在の怪しさ、というものを浮かび上がらせることができるということでしょう。

 

 ここは國分さんがアーレントの概念を借用した上で「意志」をどういうものとして考えるのかが述べられている重要な箇所だと思いました。(p.123〜アーレントの意志論)「意志」というのは、本テキストのタイトルにもなっているわけです。

 

少し断片的になりすみません。

少々飛ばしましてフーコーの話へ↓

 

中動態についての一つの補助線として、フーコーの議論も紹介されました。

 

 

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フーコー「権力と暴力」の定義から中動態を見出す

 

 フーコーは、中動態について語っているわけではないと考えられる(P.151)が、フーコーのこの議論は、國分さんの主張したい中動態に当てはまる人間の行為をうまく描きだしているようです。

 フーコーが中動態という言葉を用いずとも、能動と中動の対立を思考していたのではないか、と考えるならば、第4章で國分さんが主張していたように「言語が思考を直接的に規定しているわけではない」ということを証明することにも繋がるようです。(p.163-164)

 

 

 アーレントの「権力と暴力」についてもフーコーのそれと比較しようと思ったのですが、時間が足りず割愛させていただきます。

 

既に日数が近づいてまいりましたが、次の読書会は、9月15日(土)18ー20時にて、6章を読み進めます。

場所:Tetugakuya

参加費:1,000円(飲み物代込み)

 

著者 國分功一郎さんをお招きして

著者 國分 功一郎さんをお招きして

7月20日哲学読書会『中動態の世界 意志と責任の考古学』特別編

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國分功一郎


 遠くは、広島、岡山、徳島、高知含め、遠くからお越し下さった方もいらっしゃいました。 ご参加くださった19名の皆様ありがとうございました。

 Tetugakuyaにおきましては、春から継続して来た読書会のなかで、参加者の皆さんと丁寧に「中動態の世界」に向き合って来ました。 そうしたなかで國分さんにお越しいただけることは大変幸運なことでした。

 また、今回初めてお越しになった方々にとりましても、貴重な時間となっていただけたら幸いです。 著者の國分さんの口からお話を聞いて、直接質問をし、応答していただけるということによって、また一歩、理解や学びが深まったという方もいらしゃったのではないでしょうか。

  ひょっとすると、改めて自分自身の内側の「問い」がより深まったという方もいらっしゃるかもしれません。 おひとりおひとりが、同じテキストに向かいながらも、様々な背景と想いを持っておられることと思います。

 懇親会では、読書会ではできなかったお話も弾んだのではないでしょうか。 今後も続く哲学読書会がご参加される皆さんにとって、知的共同作業でありながらも、同時に、「各々の本性を精一杯に生きる」ことの助けになれる哲学の時間であれるよう願いつつ、継続してまいります。

 

第4回 読書会『中動態の世界』4章 感想

4章を読む

この日は、全14名での読書会となりました。

 4章を扱う今回から、初めてご参加くださった方も何人もいらっしゃいました。

 1章から3章までの内容について何が書かれていたのかをおさらいすると、その内容だけで1、2時間経ってしまいそうですので、おさらいする時間はとっていません。

 そのため、初めて参加される方は、突然の4章からの内容に「難しい!やっぱり哲学は自分には縁がない!」と思われるのでは・・・と主催者としては少々気になっておりました。

 ところが、終わった後、「難しかったけれど、面白かった!」というお声が聞こえてきてきました。大変嬉しかったです。 (お申し込みの際、「事前に本書全体の導入である1章だけでもぜひ読んできてください、その方がきっと当日楽しんで頂けますよ。」とお願いはしています。)

 

また、哲学的に思索しようとすると、話題が果てし無く飛んでいってしまう可能性を常に秘めていると思います。

もちろん、それは悪いこととは言えないけれど、最初の話が何であったのかが分からなくなる、ということもしばしば。

しかし、参加者の中から、丁度今行われている議論を整理してくれる人が現れると、議論の質がぐっと深まってきます。

 

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第3回 読書会『中動態の世界』3章 感想

第3回読書会

 この哲学の読書会に、毎回10名前後の方が集まってくださることに、主催者として感激しています。そして、この難解な本に果敢に向き合おうとされる皆さんの姿勢に、いつも感動してしまいます。
 特別な専門的な知識があるからではなく、哲学に触れた経験があるからではなく、積極的に興味を持って知ろうとなさる参加者の皆さんの姿勢に、主催者自身が多くの気づきを与えられています。ご参加くださった皆様、ありがとうございました。
 
 3章は、2章よりもさらに、「能動態・受動態・中動態」について踏み込んだ分析がされていました。
 現代の私たちが持っている先入観がどのようなものであるか、そして、その誤った先入観がどのように作られて来たのか、過去の専門家たちがどのような誤った解釈をしたのか、また、正しくはどう解釈すべきかが、述べられていたと思います。
 
 なんとか理解しようと試みても、私たちが繰り返し日本語で読む「中動」という漢字にも誤魔化されてしまう。(中間を意味しないのに・・・)
馴染みきった先入観が常に邪魔をするので、能動態・受動態・中動態が正しくは何であるのか、こんがらがってしまう。

参加された皆さんの混乱ぶりも、対話の中で見受けられました。
「う〜ん。難しいなぁ・・・。」「いや、この本は難しいよ。」と口々にみんなで頭を抱えました。



 言語の規則を意識し、整理しようとすることの困難さについては何度も、國分さんも書かれています。むしろこの困難さ(自分たちの認識の枠組みを超越できないこと)が重要なのかもしれませんね。

 
 
文法を論じるということは、自分たちが従っているにもかかわらず、完全に意識することができない、そのような不思議な何かを相手にするということである。
 ならば、本稿の課題にはさらなる困難が見出せよう。中動態を論じるということは、かつてある人々がそれに従ってはいたが、もちろん完全には意識しておらず、あるときから、一部の哲学者や文法家がそれを意識しようと試みたがうまくいかず、またその規則そのものも変化していってしまった、そのようなものを論じることだからである。(p72)

 

 
 
 現代の私たちに馴染み深いのは、能動態(する)と受動態(される)の対立です。
しかし、この自分たちの認識の枠組みを一旦置いておかなければならない。
これが簡単ではないから、こんがらがってしまう。


 読書会に集った参加者の皆さんが一同にして熱心に頭を悩ませながら、理解を進めようとするのも、また哲学の読書会の醍醐味と思える回でした。