てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

第2回 読書会『愛するということ』感想

11/12 に第二回テツドク『愛するということ』を開催いたしました。
 
テキスト:『愛するということ』エーリッヒ・フロム著  鈴木晶紀伊国屋書店出版 1991
 
範囲:2章愛の理論 P65親子の愛〜第2章終わりP125まで
 
 

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飛び入り参加の方も含め、全員で7人の参加となりました。
話題に上がった内容をご紹介いたします。
 
 
『愛するということ』第2章におけるフロムの理論は、キリスト教の説く愛をモデルとして展開されたものだとの指摘がありました。
 
ところが、キリスト教の説く愛がそもそもなぜモデルとなるのかについてフロムは説明していないまま、キリスト教をモデルとした上で、モデルに反する例を述べるに留まってしまっているのではないか。そうであるならば、キリスト教の文脈を離れたとき、フロムが愛について述べていることにどの程度の説得力があるのか、という疑問も出てきました。
 
また、「親子の愛」の節(65頁から75頁)で、フロムは、母親の子どもに対する愛が子どもに条件を要求しないのに対し、父親の子どもへの愛は、子どもが父親の設定する条件をクリアしたときに初めて注がれる、と指摘しています。この指摘について、次の趣旨のことが話題になりました。
 (i)この指摘に合わない母親や父親もいるのではないか。
 (ii)それはそれで構わないので、フロムは飽くまで愛の二原理あるいは二類型を指摘しているにすぎない。だから、子どもを条件抜きに愛する父親がいてもいいし、逆に自分の愛に条件をつけたがる母親がいてもいい。
 (iii)現実の母親や父親については、「おおむねフロムの言うように子どもを愛している」とすら言えないのではないか。いっそのこと愛Aと愛Bのように、性によらない対比をしたほうが誤解を招かないのではないか。
 
今回は、予定していた範囲の全てについて触れることができませんでしたので、次回も引き続き、第2章兄弟愛(p.77)から読み進めたいと思います。