てつがく屋(旧学舎フィロソフィア227)

香川県で哲学カフェや哲学読書会など文学系サロンを開催しています。

「感情的じゃダメですか?」

 

「感情的じゃダメですか?」ここテツ レポート

 

聞いて・話して・考えるここから始まるテツガク

「感情的じゃダメですか?」

 

感情的であるよりも理性的な方が良い?理性だけでもダメ?どんな時は感情的であっても良いの?

どんな時は理性的でなければならないんだろう?そもそも感情と理性はどう違うの?

  

 

 

10代から70代までの総勢15名の参加者が一つのテーマの元に集いました。

 

対話のなかで、感情とは?理性とは?ますます迷宮に陥るような不思議な印象を受けました。

 

私たちは、普段当たり前のように使っている「感情」や「理性」といった言葉をどれだけ理解して使っていたのでしょう。

分かったつもりになっていた言葉を、思わずもう一度辞書を引きたくなりました。

実際に辞書を引いてみられた方はいらっしゃいましたか?

当たり前のものとして、もはや確認すらしないものを、もう一度改まって確認してみると新鮮な発見があるかもしれません。

 

 

 

さて、以下で皆さんとの対話の内容の一部をご紹介します。

 

 

そもそも感情と理性は対義語なの?

 

感情の対義語は、感情がないのだから無関心なんじゃないかな?

だけれども実際のところ、私たちは、普段、理性の対になるものとしてよく感情を用いる気がするのだけど、それは一体どういうことだろう?

 

 

 

感情も理性もコミュニケーションに関わる?

 

感情は分かりやすくて人に伝染しやすい。そうした意味では、感情は良い意味でも悪い意味でも力を持ちうるのではないかな。

理論的に整っているだけでは、人の心を動かすのは難しいのではないだろうか?相手の心を動かすには、共感が大切で、共感とは感情のことじゃないかな?

 

 

 

 

理性は、第三者の視点?

 

理性には、どこか自分自身を俯瞰して見ているような第三者的な視線があるんじゃないだろうか?ひょっとするとその第三者的な視点は、コミュニティの中における・日本の中でおける・世界の中における・宇宙の中における・・・と、そうしたところまで私たちは考えを及ばせることができるんじゃないかな。
理性とは、自分が自分でありながらも、自分の主観から少し身を引き離すようなことが起こっているのかも知れません。そうだとしたら、とても不思議にも思えます。

 

しかし、次のような新しい疑問も出されました。

 

私たちは、どこまでいっても自分自身であって、第三者的な視点だって、やっぱり自分自身なのであって、他人から見たら、やっぱりそれも含めて、ただのその当事者本人なのではないでしょうか。

 

私たちは、本当に客観的であることなどできるのか?というのは、理性とも関係のありそうな問いです。

 

 

 

 

理性と感情の狭間で

 

この哲学対話の時間の間ずっと感じられたのは、理性と感情をきっぱりと区別することの難しさでした。

 

どうやって自分が感情的か理性的か判断できるんだろう?

 

私たちの全ての事柄には、感情がこもってるんじゃないかな?

でも、感情だけで突っ走ったら、自分も痛い目を見るわけだから、その辺りは、理性でコントロールしているんじゃないかな?そうでなければ、自分が痛い思いをするのだから。

 

感情的であるということは人間的であることだと思う。感情をある程度出さないとストレスが溜まってしまう。どれだけ感情を素直に出せるかが、楽しく暮らせる生活に繋がると思う。

でも、大勢の人と一緒に生活していくためには、理性的に感情を抑えなければならないことも多いけれど、そのバランスが難しいと思う。

 

どうやら、理性は、感情の制御ブレーキの役割を担っていそうな意見もちらほら出てきました。

 

理性というのは、論理的であるかどうかであって、思考の問題なんじゃないかな?

理性の「理」は「ことわり」だもの。

 

研究や学問が論理的であっても、その何処かに情熱や探究心があるんじゃないかな?両者は相反する訳じゃないのかも知れない。

 

 

 

 

どんなものに感情は向くのか?

 

数式の定理や天体の動きは理路整然としていて、ある意味では、理論的であるにも関わらず、「美しい数式」「美しい星の動き」というのが言えるんじゃないかな?

 

物質であっても、その向こうに人がいると思えたら、感情が動くんじゃないかな?

 

一方で、夕陽や星を見ても涙することがあるという意見も。

 

人でない何物かに気持ちが動くとしても、それはただ、自分のその時の気持ちを投影しているだけなんじゃないかな?
でも本当に、単に自分が自分を投影しているだけだとも言い切れるのだろうか?

 

 

 

 

相手に自分の感情を伝えようとする時に理性を用いる?

 

自分の感情が間違って伝わらないようにするために相手への言葉を慎重に選ぶ。

 

メールなどの文面だと冷たい印象を与えやすいので、あえて絵文字を使うようにしている。

 

そのようなお話の中で、相手にどう伝わるのかを配慮し、自分の感情を伝えようとする時には、どこかで自分本位な視点から離れて、相手の立場を配慮しているのではないかな?

そうだとしたら、どこかで理性的でなければ、伝えたい感情も正しく伝わらない?

 

 

 

 

感情の量は多い方がいい?

 

感情を想像力の豊かさにつなげて考えられる方もいました。

感情は理性のように秩序立っていないかも知れないけれど、逆に言えば理性の範疇を超えていくことのできる不条理さがあって、それは人間の持つ豊かさとも言えるかもしれません。

 

一方で、某国の大統領であるトランプさんやヒットラーを例に、感情的なものは分かりやすいからこそ伝染しやすく、ある意味では、恐ろしさもあるのではないか、というお話も少しありました。

 

 

 

 

まとめ

 それぞれの皆さんの意見や疑問を発展させる形で、もう少し深く別のテーマで対話ができそうだなと思いました。

哲学と名がつくと、何か難しいお話をしなければならないと感じるかもしれません。しかし、この哲学対話の場では、「こんなこと話しても仕方がないし黙っておこう」と思われるような内容でも、その場にいる参加者の全員にとって、新しい考えや発想を与えてくれることが良くあります。

自分にとって当たり前の言葉が、みんなにとっても当たり前とは限りません。

そうした意味でも、参加者お一人お一人の言葉がとても大切となる場所です。

 

今回は「感情」と「理性」について、年齢や立場を超えて皆さんと共に考える時間を作ることができました。

皆様のご参加ありがとうございました。